象が転んだ

たかがブロク、されどブロク

”誇大包装”にしぶとく巣作る弊害と〜過剰包装と隣組の世話って、必要なんだろうか?


 お袋の敬老会の引出物として、大中小の箱が3つ送られてきた。
 ここ数年は、敬老会の旅行や会食が少なくなり、引出物を送るのが通例になった。

 失礼な言い方だが、敬老会って必要なものだろうか?
 毎年の様に、高齢の世話人がせっせと集金に回り、この夏の暑い時期に汗を垂れ流しながら、せっせと贈り物を配る。留守だったら、何度も往復を繰り返す。
 この猛暑の中、クレイジーとしか思えない隣組の習慣だが、熱中症で倒れたら、誰が責任取るのだろうか?まさか隣組とか老人会がとか言わないだろうな。 


1つの部落に、2つの公民館?

 実は、我が住んでる部落には公民館が2つもある。新興住宅群に加え、市営団地と県営団地が出来て、大きな部落になったからだ。
 部落の中でも村の方は過疎のままだが、私が住んでる所は目の前に電車駅があるので、田舎にしては開けている方だ。
 しかし、地名に”大字”がつく程のド田舎で、そこに2つの公民館がある。香港の”1国2制度”ではないが、これじゃ”1部落2公民館”である。お陰で、問題にならない訳がない。

 今から20年程も前の事だが、新しく公民館を作ろうという話になった。
 世話人の仕事が増えるし、余計な出費も増えるから、反対ではあったが、その場の勢いもあってか、新たに”おらが村”の公民館が建つ事となった。
 初期費用に加え、毎年更新される登記代に、1件辺り千円が徴収される事になった。
 それでも最初の数年間は調子良かった。隣組淀君祭”も暫くぶりに復活し、そこそこの賑わいを見せてはいた。
 しかし10年近くになると、嫌悪で殺伐とした雰囲気に変わり、その後、予算の都合で祭りは中止になった。
 因みに私は、公民館が出来て以来、1度しか参加していない。事実、哀しいかな、焼き鳥がタダで食えるから、皆参加してただけだ。

 事実その通りになった訳だが、今度はこの公民館の処分で頭を悩ませる様になる。
 つまり、殆ど利用機会のない建物を維持する必要がどこにあるのか?というのが、隣組の共通の認識となりつつある。
 処分の件を市に相談すると、1つの部落に2つの公民館があるのは余計で、市の管轄外という事だ。
 結局、過疎な部落に余分な建物が取り残された形となった。勿論、タダでも買い手があれば嬉しい限りだが、そんなお人好しがいる筈もない。
 これでまた、隣組に1つの大きな問題が浮上した事になる。


過剰包装の是非

 そんな中での、敬老会の贈り物だ。

 大袈裟な包装紙を引っ張がし、豪勢なお箱を開けると、お決まりのバスタオルと生菓子と薄っぺらなクッキーであった。
 過剰包装とまでは言わないが、これでまた厄介な処分ゴミが増える。特に化粧箱は分厚い紙が嵩張り、折り畳んで処分するのに苦労するし、分別包装の軟プラは鬱陶しい。
 日本人の世話好き&祭好き&贈り物好きの風習や、几帳面でご丁寧な性癖は、結果的には余計な廃棄物を産出する結果となり、我々に跳ね返ってくる。
 因みに、日本の個別&過剰包装は世界でも有名らしい。

 そこで、亀田製菓とブルボンに”過剰包装やめて”との女子高校生の訴えが炎上し、中傷やデマが拡散したというニュースを知った。 
 確かに、日本で個別包装が始まったのは、80年代のグリコ森永事件以降の事である。青酸カリ注入を防ぐ為に、菓子メーカーの包装が過剰になったのだ。
 そういった事情を踏まえても、昨今の”多重”包装は、どうもやり過ぎの感がある。
 どんなに包装を頑丈にしても、注射針で突き通す事は可能だ。たとえ、量売りにシフトしたとしても、派手な包装ならば同じ事である。

 日本人はモノを買うというより、パッケージに無駄金を落としてるに過ぎない。
 同じ原材料で同じ工場で同じラインで作られても、パッケージがあるなしで、値段も価値も全く異なる。
 コールガールの世界でも全く同じ事が言える。しかしアパレルと同じで、派手な装飾と無駄な機能は真っ先に衰退する。
 日本人の、包装好きや引き出物や化粧箱の古き良き”モノ”に寄せる伝統は、今や地球環境を汚すだけの廃棄物に過ぎない。

 誇大妄想いや誇大包装とは、今や中傷やデマやカルト思考と並ぶ、悪害という名の廃棄物に過ぎないのだろうか。