「南京大虐殺は真実か誇張か・・」では、”現地の日本軍も中国人も大量のアヘンで頭がおかしくなってた事も、要因の1つと言えるだろう”と書いた。
勿論、南京大虐殺の全てをアヘンのせいにする筈もないが、アヘンと旧日本陸軍と南京大虐殺の密な関係が隠されてるのでは?と、”アヘンと南京大虐殺”で検索すると、「近代中国におけるアヘン・麻薬問題と日本居留民」(小林元裕著、PDF版)に引っかかる。
これは、東海大教授で作家の小林氏の著書「近代中国の日本居留民と阿片」(吉川弘文館、2012)をファイル化にしたものだが、「阿片帝国日本と朝鮮人」(朴橿(박강著、2018)を小林氏が一部翻訳して書かれたものだ。
以下でも述べるが、1930年代に満洲から華北、更にはロシア沿海州まで席巻し、軍事帝国日本の脆弱な経済基盤を下支えした”麻薬”だが、その密輸・販売の末端には、移民として東北アジア全域に渡った朝鮮人達がいた。彼らは何故、麻薬を売らねばならなかったのか?未だに不明な点が多い朝鮮人密売者の丹念な調査を通じ、植民地経済が広範に生み出した歪みを浮かび上がらせる。
このファイルでは、中国と東京裁判と近代中国のアヘン・麻薬問題と、それに日本居留民と日中戦争論という3つのテーマに分け、日中近現代史という大きなテーマを構成する。
特に注視すべき点は、日本が中国に対して行った①毒ガス使用や②都市への無差別爆撃、③民衆への暴行行為の3つを戦争犯罪とを考えていたのに対し、米国は①満洲事変(1931)・盧溝橋事件(1937)と②旧日本陸軍による暴行・違反行為と③アヘン問題の3つに関する事実と証拠資料を中国側に要求。結果、この3つと南京大虐殺は東京裁判で断罪され、世界中に知れ渡る事となるが、毒ガス使用と無差別爆撃の2つは米国の圧力により隠蔽された事にある。
但し、この米国の策略により、毒ガス戦は裁判に取り上げる事で、化学兵器の情報がソ連に渡るのを防ぎ、無差別爆撃は東京大空襲や広島・長崎への原爆投下に問題が及ぶのを防ぐ目的があった。一方で、当初殆ど知られてなかった”日本のアヘン・麻薬密売”による犯罪事実を白日の下に晒す事となる。
そこで今日は、東京裁判や南京大虐殺はよく知られた事実であり、私も過去に何度かコラムにしたので、”アヘン問題”を主なテーマに要約して纏めますが、出来るだけファイルに忠実に紹介したいと思う。
中国と東京裁判
第2次世界大戦終了後の1946-48年に、旧日本軍の戦争犯罪を裁いた東京裁判が開かれ、中国との関係で言えば、満洲事変や日中戦争勃発後の日本軍による南京大虐殺など、日本国民の殆どが戦時中に知る術もなかった日本の侵略行為について、中国検察官らがその事実を白日の下に晒した。
東京裁判にては、その歴史評価を巡り、米英など”戦勝国による押しつけ裁判であり、公正な裁判とは認められない”との議論が現在でも日本には根強く存在する。だが、東京裁判により戦時中には見れなかった日本政府や陸海軍の公文書の一部が公開され、多くの歴史事実が発掘されたのも紛れもない事実である。
東京裁判は連合国である米・英・ソ・中・仏・加・蘭・印・豪・比の10か国によって構成。一方で、ナチスドイツを裁いたニュルンベルク裁判が、米・英・ソ・仏の4か国で構成されたのに比べ、東京裁判は倍以上の国家によって担われた。更に、法廷言語として英語と日本語の2つが使用され、裁判の記録もこの2か国語で記された為、東京裁判に関する研究はこの2言語による研究が中心となり、必然的に日米の2国に関する分析が中心に行われてきた。その為に、(英国を除く)その他の国々の関係からみた東京裁判研究は少数ながら存在するが、未だ十分とはいえない状況にある。
そこで、小林元裕氏がテーマした東京裁判と中国の関わりだが、中国では東京裁判でとりあげられた南京事件に研究の関心が集中し、東京裁判そのものに対する分析は長い事放置されてきた。が、中国におけるその様な状況が大きく変化したのは、2011年の上海交通大学東京裁判研究センター(東京審判研究中心)の設立で、日本や米国だけでなく、世界各国に東京裁判関係の文献が収集・翻訳・出版された事にある。
東京裁判にて、中国が日本の何を裁こうとしたのか?については要約のみを記すが、第2次世界大戦が最終局面に入った1944年11月、連合国は中国の重慶に極東太平洋小委員会を設立し、日本の戦争犯罪調査や戦犯容疑者リストの作成にとり掛かった。
この段階で中国は(冒頭で述べた様に)日本が中国に対して行った戦争犯罪として①日本軍の毒ガス使用②日本軍による都市や民間地への無差別爆撃③日本軍国主義が中国民衆に実施した各種の暴行行為の3点を考えていた。
これは当時、極東太平洋小委員会の議長を務めた王寵恵が記録を残してるが、事実日本軍は中国軍に対し、戦時国際法に違反する毒ガスを戦場で使用し、1937年の開戦以降には上海や国民政府の臨時首都・重慶に対し空爆を行い、非戦闘員を多く殺傷した。そして、東京裁判でその事実が明らかになった南京大虐殺の様に、日本軍は中国の各地で一般人や捕虜を殺傷した。つまり、中国は戦時国際法に照らし、日本の犯罪性が明らかで、かつ訴追が可能な点に絞り、日本を裁こうとしたのは明白である。
だが、第2次世界大戦が終結し、東京裁判の準備が始まる段階になると、この方針は大きく変わり、開廷準備の為に東京に赴いた向哲濬検察官は、東京裁判の検察機関として設置された国際検察局(IPS)からの要請として、中国に3件の事実確認と証拠資料を送るよう要求。
その3件とは、①満洲事変(1931)及び盧溝橋事件(1937)②日中戦争期の松井石根将軍と畑俊六将軍指揮下の日本軍による暴行及び国際法違反行為③アヘン問題についてであった。勿論、これら3件については、その後の法廷で全て取り上げられ、日本の戦争犯罪として裁かれる事になる。
つまり、王寵恵が当初想定した日本の戦争犯罪で法廷で裁かれたのは、南京大虐殺に代表される”日本軍国主義の中国民衆に対する暴行行為”のみで、東京裁判では日本軍の毒ガス使用や都市無差別爆撃は法廷では取り上げられなかった。
これは明らかに米国の策略であり、毒ガス戦に関しては東京裁判で取り上げる事で、化学兵器の情報がソ連に渡るのを防ぎ、また都市無差別爆撃に関しても、米国自らの明白な戦争犯罪である、東京大空襲や広島・長崎に対する原爆投下に問題が及ぶのを防ぐ目的があった。
この様に東京裁判は、中国が裁こうとした日本軍の毒ガス使用と都市無差別爆撃については戦争犯罪を問えないままに終わるが、その一方で当初知られていなかった”日本のアヘン・麻薬密売”による犯罪事実を白日の下に晒す事となる。
近代中国と日本の”アヘン・麻薬問題”
近代中国におけるアヘン貿易と、それが引き起こした”アヘン禍”は英国との間に戦われた2度のアヘン戦争、即ちアヘン戦争(1840-42)とアロー戦争(1858-60)を契機に中国に大きく広がっていく。アロー戦争の結果、清朝は天津条約を結び、アヘンの合法化に初めて踏み切り、アヘンによる様々な厄災は2度のアヘン戦争から始まった事実がある。
この歴史事実は高校の世界史には出てこないが、その後、英国での人権意識の高まりと自由貿易の進展により、英国が中国とのアヘン貿易を徐々に縮小したのに対し、英国に代って歴史の舞台に登場した日本だが、中国で展開された列強による利権獲得競争に遅れて参加した日本は、英国の後を追う様にアヘン・麻薬の販売に手を染めていく。
日本によるアヘン・麻薬政策とその販売、また日本の植民地下にあった朝鮮人らを含む日本居留民によるアヘン・麻薬密売は、東京裁判で究明され糾弾された日本の犯罪行為の1つだった。但し、近代日本が国家規模でアヘン・麻薬政策を推進した一方で、中国で阿片・麻薬の販売を担ったのが、中国を生活の場とした日本居留民である。因みに、日本居留民とは日本人だけでなく日本植民地下にあった台湾人・朝鮮人を含め、”日本人居留民”と表現した。
中国における阿片・麻薬問題については「阿片帝国日本と朝鮮人」にその詳細があるが、日本の植民地下にあった朝鮮及び朝鮮人と阿片・麻薬関与について纏めたものである。
一方、日本国家による”アヘン政策”だが、日本の近代、特に日中戦争以後の阿片・モルヒネ・コカインなど麻薬に関する政策であり、その立案・生産・配給・管理等については、日本国内では内務省や厚生省が、国外では外務省や興亜院、大東亜省及び植民地官庁が管掌し、占領地では日本軍が実質的に遂行した。
明治維新後、日本は国内における阿片の製造・販売・使用を医療目的以外で厳重に取締り、阿片は大きな問題とならなかったが、日清戦争以降、植民地として台湾と朝鮮を、租借地として関東州を、更に上海や天津等の租界や山東半島を獲得すると、日本は阿片問題に直面する事となる。一方で台湾や大連では、阿片の漸禁政策を採用して専売制度を導入し、朝鮮では阿片原料のケシを栽培。
その後、第1次世界大戦により医療用モルヒネの輸入が途絶すると、日本の製薬会社は1915年にモルヒネを国産化し、大阪府の農民・二反長音蔵らがケシの栽培に尽力。日本は1912~31年にかけ、阿片・麻薬の生産・輸出入・販売の制限に関する4つの国際条約に調印・批准していたが、大連・天津・上海などの地で多くの日本人や朝鮮人が日本産モルヒネの密売に従事し、日本の阿片取締りに対する非協力的な態度が国際連盟や国際会議で非難された。
その後中国では、南京国民政府が1928年から本格的な禁煙政策に取り組むも、日本は32年に満洲国を樹立し、ケシの生産と専売を開始。37年に日中戦争が勃発すると、内蒙古に蒙疆政権を樹立して阿片を生産し、他地域や国に移輸出させた。一方、日本軍は民間人の里見甫を起用して上海に華中宏済善堂を設立。当初三井物産が密輸入したイラン産阿片を39年末からは蒙疆阿片を中国人商人の阿片ネットワークを利用して販売。その巨額な収益は汪兆銘政権の樹立工作やその財源、また日本軍の資金源として使用され、太平洋戦争勃発後、日本は占領したシンガポールでも阿片を精製・販売。急激なインフレが進む占領地にて阿片は物資購入の為の通貨の役割を果たした。
1943年、南京その他の都市で学生らの反阿片デモが発生すると、里見は華中宏済善堂を辞職。45年の敗戦により国策としての日本の阿片政策は終りを告げ、翌年の東京裁判では日本の阿片政策の犯罪性を追及し、事実関係の一端を明らかにした。
日中戦争論と日本居留民
1980年代当時、日中戦争研究の課題は”侵略する日本と抵抗する中国”とか”加害者日本と被害者中国”という、ある意味で単純な日中間の対立構造から分析する研究が中心だった。特に、南京大虐殺に代表される日本の戦争犯罪の事実究明に力が注がれたが、その後、90年代に入り、戦後50年となる1995年にかけ、それまで議論されてきた日本の戦争責任だけでなく、戦後責任や戦後補償の問題にまで議論が広がっていく。
2019年現在、日中戦争史研究の重要な課題として、1つに”被占領地と非占領地”、2つに”加害と被害”、3つに”前線と後方”の問題がある。まず、被占領地と非占領地についてだが、日中戦争勃発により戦火に巻き込まれ、日本軍が占領した上海に残った中国人には①上海の租界を拠点に抗日救国の活動を試みた人々②上海に留まる事で利益を見いだそうとした人々③行き場がなく上海に留まった人々、の3種類に分かれ、中国人にとっての”抵抗”は一元的な構造で説明し難い事が判る。
当時の中国には、都市レベルでなく”面”として、中国東北部に日本がつくり出した満洲国や、蒙疆と呼ばれた内モンゴルなど、漢族以外の民族が多く居住する地域があったが、これらの地域では、民族という問題が”抵抗”の意味を更に複雑にした。つまり、民族の視点から日中戦争を考えると、漢族以外の民族には、①漢族と共同し日本に抵抗する②日本を利用し中華民国からの独立を目指す、との2つの選択肢が存在し、日本は満州国建設により後者を利用しようとした。そして、その他にも都市部と農村部での状況の違いを考慮しないと”抵抗”の実相は見えてこない。
勿論、日本が占領出来なかった地域には、重慶に国民政府が臨時首都を築き、中国共産党が抗日根拠地(辺区)に拠って日本に抵抗を続けた。日中戦争勃発直後には、国民党と共産党の間に第2次国共合作が結ばれ、協力体制が築かれたが、日中戦争が長期化すると両党の間に対立が目立つ様になり、中国の”抵抗”は決して一枚岩ではなく、複雑な様相を呈していた。
次に、加害と被害の問題だが、これまでの研究が明らかにした様に、日中戦争の加害者は日本であり、被害者は中国という構図に異論はない。しかし、当時の政治状況を民衆レベルでみると、そこには日本人だけでなく、日本に”協力”した中国人、また日本の植民地下にあった台湾人や朝鮮人らによる中国人への”加害”があった事も事実で、ここでいう”加害”とは必ずしも暴力行為によるものだけを意味しない。
だが、”加害”の側に回った中国人は戦後、漢奸裁判にかけられ、”民族の裏切り者”として糾弾され、中国に渡った台湾人には教師や医者など知的労働者の割合が多かったが、例えば満洲国で働いた経験を持つ台湾人は、戦後台湾に戻ると、国民政府の支配下にあって大陸同様に”民族の裏切り者”として長い間非難の対象と見なされた。
そして、朝鮮人の中には中国でアヘン・麻薬の密売に従事し、日中戦争の最前線では日本軍に協力した者も存在した。台湾と朝鮮は日中戦争期に日本帝国の一部であったという事実は、”抵抗”する中国人から見れば、彼らもまた日本の側に立つ”加害”者だったのだ。
最後に、前線と後方についてだが、中国では日本軍と戦ってる地域が前線であり、日本軍の侵攻がまだ及ばない中国西南・西北部の重慶を臨時首都とする国民政府の支配地区を”後方”と呼ぶが、この”後方”は当時”銃後”と呼ばれた。一方、日本では一般に、実際に戦闘を繰り広げてる中国大陸が”前線”であり、日本国内が”後方”と位置づけられ、太平洋戦争でもこの構造は変わらず、”前線”は国外で”後方”は国内にあった。
この構造は、戦争末期の沖縄戦で日本国内が戦場となり、実際には”前線”と化した訳だが、”後方”は日本国内だけに存在したのではなく、北京や天津や上海の様に戦前から日本居留民が多くいた地域においても存在したと考えられる。事実、天津などは日中戦争にて日本軍受け入れの前線基地となり、日本居留民は居留民団や在郷軍人会、国防婦人会の様な形で”後方”を担った。つまり、日本軍が占領した華北は”前線”であり、同時に”後方”という、日本国内と異なる日常や生活環境が形成されたと言える。従って、”前線”と”後方”は海を挟んで存在してたのではなく、”前線”のすぐ背後に”後方”が存在したと見るべきだろう。
最後に
以上より、日中戦争と日本のアヘン政策と、そのアヘンの密売に群がった(日本人だけでなく)日本植民地下にあった中国人や台湾人や朝鮮人らも含めた”日本人居留民”らの存在が複雑多岐に絡み合った、不可思議な負の歴史として考察する必要がある事も理解できる。
個人的な視点で言えば、こうした一連のアヘン政策には、日本や当時の日本植民地下にあった中国人・台湾人・朝鮮人を含めた日本居留民だけでなく中国での利権を確保しようとした欧州の列強や米国CIAの関与もあった事だろう。事実、「岸信介の実像(後半)」でも書いたが、CIAと岸信介は”アヘン繋がり”だったとされる。つまり、(以上で書いた)日本の組織ぐるみの”アヘン政策”を隠蔽する為に、米政権と新安保の密約を結んだと言えなくもない。
従って、こうした旧日本軍の負の歴史は、当時の日中関係や日中戦争だけでなく、世界全体の近現代史の時代の流れと全体像を把握させた上で話さないと”日本だけが悪いのではなかった”とか”中国の側にも問題がある”との二国間の短絡的な誤解を招く恐れがある。
故に、”歴史の全体像から個別部分へ、個別部分から全体像へ、更には普遍性から特殊性へ、特殊性から普遍性へと、歴史は語られるべきである”と、小林元裕氏は論じる。
かつて、<数学の王>ガウスは”数学は演繹ではなく帰納的であるべきで、その道は特殊から一般へである”と語り、<日本近代数学の父>高木貞治氏は”数学は抽象化と具象化を行き来しながら生き延びる”という様な事を言っておられた。
まさに歴史も同様で、まずは特殊から一般へと検証を進めるべきであり、具体的で特殊で特異な歴史や史実を考察し、そこから得られた実像や実証をより広範な、そしてより抽象的な近未来の歴史を洞察する数学的なアプローチが必要となる。一方で、そうした歴史の洞察は抽象化と具象化を行き来しながら語られるべきであろう。
以上の事は、数学や歴史だけでなく、万物においても通じる事である。