象が転んだ

たかがブロク、されどブロク

スマホのない生活とラマヌジャンと


 先々週はスマホもパソコンも故障し、全く文明の利器を失った私だが、過去の偉人たちの知恵はしっかりと私の脳の中で息づいていた。 
 この偉人の一人である、インドの偉大なる数学者ラマヌジャン(1887〜1920)に関しては、ある程度だが知ってるつもりでいたし、ラマヌジャン予想の証明に関しては、ブログの下書きも終わってた程にです。


 しかし、素数オイラー積とは別に、ゼータ関数の弟分のL関数の視点からラマヌジャン予想を眺めると、色々と新しくも嬉しい発見がある。
 まるで、彼のいた時代にスリップインした感覚だ。ある種のファンタジーを見てるみたいだった。それだけ、ラマヌジャン予想というのは、数学者にとってもそうでなくても、魅惑の幻想に満ちた予想なのだろうか。

 勿論、この予想を数学的に解く事は異常なまでな難題だが。それでもこの雰囲気に触れるだけでも、その数学的情景に浸るだけでも、スマホがパソコンが壊れた事に感謝すべきだろう。


 ヘタレ数理系の私めは、本を読む時はわざわざ書き取りながら読む癖がある。そうする事で大まかなレイアウトや、登場人物をリアルタイムで把握でき、読む楽しみが倍増する。過去の偉大な作家の生きた時代に、タイムスリップした感覚が味わえる様に思えるからだ。 
 
 故に、地球上からネットやスマホが消滅したら、もっと高度な文明が誕生するかもしれない。一笑に伏されるかも、いや大げさな言い方かもだが、文明の利器を失う事で、人類は過去の偉大な知の遺産を発掘し噛み砕き、自らの進化に生かせるかもしれないと。
 ひょっとしたら、ネットやスマホが消滅した時代に、リーマン予想が証明されるかもしれない。またそう思いたいな。


 ゼータ関数の一番の特徴は、その収束性にあると言われてる。その美しき収束ゆえに、様々な関数を引き寄せ、虜にし、密な関係を持つ。そして、このゼータの美しき謎にラマヌジャンが特異の視点でメスを入れた。直感と洞察という名の、文明の利器を大きく超えた鋭い一刺しを。


 二週間程だが、この文明の利器を失った私が、パソコンもスマホもネットもなかった時代の、超天才の洞察に巡り会えたのは非常に幸せだった。

 自らの超人的な洞察以外に、何も頼るものがなかったラマヌジャンの世紀の予想は、その後の現代数学を、ゼータの存在を大きく変革し進化させるものだった。

 因みにラマヌジャンは、1920年に32歳という若さで早逝するが。数学的解析、数論、無限級数、連分数といった分野で多大な貢献をしたのです。

 ”The Man Who Knew Infinity”(無限を知っていた男=2016)という彼を題材にした映画がシリコンバレーのエリートから絶賛されてるらしいが、悲しいかな日本では公開未定だ。臭いモノと難しいモノには蓋をする農耕族の貧相な性であろうか。

 
 もしラマヌジャンが、今の超便利な時代に生きてたら、どんな数学者になってたであろうか。フィールズ賞アーベル賞の常連であったかもしれないが。学歴や環境や経済に恵まれすぎて、超人的な洞察力が生かされる事もなかったろうか。いや、その洞察力も錆びついて使い物にならかったろうか。

 ラマヌジャンにとって、彼が生きた時代こそが最高の時代だったのだ。そして、彼が生み出した”L関数”は、数学史史上最も美しい奇跡のゼータなのかもしれない。