象が転んだ

たかがブロク、されどブロク

結局、オンナは見た目が全て〜映画「市子」に思う


 連日、大谷の奥さんがメディアやSNS上を賑わしているが、ごく普通の人で安心した。
 韓国ソウルでの野球中継では、大谷を映す以上に新婚の奥さんにファインダーを合わせていた。流石のNHK”これは現地製作の国際映像で放送しています”と必死の弁明を繰返す。
 一方で、”夢グループ”のケバい婆さんとウザいTV通販にも”不適切なシーンが・・”とのテロップを入れてほしいもんだ。 

 ただ、奥さんがグラドルや人気女優やセレブだったら、一歩も外に出られんだろう。
 結局、大衆は人を見た目で判断する。
 つまり、見た目で満足すれば、それだけで安心なのだ。言い換えれば、見た目がそのまま信用となり、大衆の評価となる。性格も人格も教養も、家系も学歴も職歴も何ら関係はない。見た目こそが最高の履歴書であり、戸籍謄本なのだろう。


「市子」(2023)

 折角の祭日だが、これといってやる事もないので、アマプラを散策してたら「市子」(2023)に目が留まった。”いい娘やな”と思い、そのまま女の誘惑に引きずられるかの如くのめり込んでしまう。
 結論から言えば、連続殺人を犯した戸籍不詳の女が、名前を変えて生き延びるという悲しい物語である。
 こういう種の作品は余り好きではないし、興味すら覚えないが、不思議と魅入ってしまった。というよりも、”市子”を演じる杉咲花のオカッパの髪型に見惚れてしまったのだ。
 私はショートヘアの女性に弱い。特に、オカッパヘアは格別に映る。どんな見てくれの女性も短髪になると格段に魅惑的に見える。
 私が思うに、猫が可愛いのは坊主だからであり、長髪の猫がいたら今の様な猫ブームが起きるだろうか。勿論、”変わってる”と言われればそれまでだが・・・

 ネタバレにはなるが、”市子”は自分の人生を守る為、(筋ジストロフィーで寝たきりの)妹の月子や(レイプを繰り返す)義父の小泉、更には、高校の同級生で(一時は身を寄せていた)北と自殺志願者の女性・冬子を殺した。
 つまり、自分が生き延びる為に人を殺し続けてきた。”正当殺人”と言えなくもないが、暴力夫との間に離婚直前に身籠った子供だったが為に(役所に出生届を提出せず育て)母親から無理やり無戸籍を選ばされ、月子として生きていた事実は、もっと残酷で不幸な事である。

 確かに、月子を殺して月子として生きるには限界がある。勿論、”市子”という戸籍のない名前も使えない。それでも女は”市子”として生きる決心をする。
 家族の不幸をそのまま背負わされ、過去を打ち消す為に名前を変え、やがて殺人を繰り返す事で、狂った人生の軌道を必死で修正しようとするが・・・
 一方で、”市子”には別の選択肢はなかったのか?月子を殺しただけなら”正当殺人”の線もあっただろう。が、かつては妹の名前を名乗り、今や存在しない筈の名前の”市子”を名乗るという彼女の決意と覚悟こそが、その後の殺人を生んだのだろうか。

 ただ、鼻歌を歌いながら田舎道を市子が歩くシーンで映画は幕を閉じるが、それまでミステリーとしてはいい感じで進んでたのに、少し拍子抜けでもあった。
 一方で、市子を演じる杉咲花には常にリアルが溶け込んでいた。彼女のリアルは市子のリアルでもあり、衝撃的な結末よりも市子のリアルに、私は思わず心を奪われていた。
 真実や歴史には交換法則は成り立たないが、映画では自由にシナリオを組み替える事が出来る。そうする事で駄作を秀作に、凡作を傑作に仕上げるのは不可能じゃない。事実、「オッペンハイマー」はこの手法を使ってオスカーを獲得出来た。


最後に〜全ては見た目

 この作品も、時間軸を前後に行き来させる事で、ミステリーが奏でる神秘と幻影を増幅させている。
 プロポーズに涙し、その男を思い失踪する女と殺人を繰り返す女。二面性が隠されてはいるが、私はそこに市子の幻影を見た様な気がした。つまり、彼女は存在する様で存在しない。”無戸籍を生きる女”で有り続けるのだろう。

 映画では明確には描かれなかったが、市子は殺した冬子の身分証を使い、今度は”冬子”として生きていくであろうか。仮に、戸田彬弘監督が「市子」の続編を意識し、この様な含みを持つ曖昧な幕切れにしたのなら、凄い才能と手腕である。
 つまり、続編は現実味を帯びてくる。が、「エスター」(2009)の続編「エスター・ファーストキル」(2022)様に、失敗する可能性もなくはない。
 というのも、映画では9歳の”エスター”を演じたイザベル・ファーマンだが続編では(既に23歳に達し)、その老いた?見た目が致命傷となった。流石に13年のブランクは彼女の卓越した演技を持ってしても埋められるものではない。

 女優を年齢と見た目で判断する事はタブーだが、”市子”を演じた杉咲花は今26歳である。仮に、”月子”を演じるとすればだが、ギリギリの年齢でもある。もっと言えば、30になれば老いた月子となり、観客は魅入る事も感動する事も幻影に惑わされる事もないであろう。
 この映画でも、”市子”の中に微妙な老いが見え隠れしてはいたが、その微妙な老いこそが私を”市子”が奏でる幻影の淵に誘い込んだのも事実である。
 一方で、映画の原作は監督自身が書いた戯曲「川辺市子のために」である。
 つまり、「市子」は”川辺市子の為に”も、このまま完結にした方がいいのかもしれない。