象が転んだ

たかがブロク、されどブロク

戦争抑止力としての数学力


 ドラマ「沈黙の艦隊」で教えられた事は、戦争をするにも平和を保つにも力がいるし、外交も力が必要な時代である・・・という事だ。

 悔しいけど、ドラマの中に登場するベネット米大統領の言う通りではある。日本は”話し合いで平和的な解決を”と言うが、その話し合いの場でも圧力と権力は不可欠である。言い換えれば、力のない小国や弱国が何を言っても、何を叫んでも、たとえ国際世論を味方につけたとしても、悲しいかな大国の力の論理には敵わない。
 それは、過去の2つの世界大戦や今現在行われてるロシア=ウクライナ戦争やイスラエル=ハマス戦争が証明している。
 ペンやメディアで幾ら平和や正義を訴えても、立場の弱い民間人の犠牲者は増えるばかりで、ロシアもイスラエルも勢いよく攻め込み、街中を縦横無尽に破壊する。 
 人道的にはとても許されない行為だが、庶民も国連も黙って指をくわえるしか他に方法はないのだろうか。


戦争と平和という二元論

 一方で、ドラマは漫画ではある。「沈黙の艦隊」での日米の東京湾決戦では、何とか逃げ切れたが、実際にはあの10倍以上のミサイルが飛来し、原子力潜水艦”やまと”は自らの命と引きかえに核を行使したであろう。結果、アメリ第7艦隊東京湾は核の灰に入り、全滅する。但し、アメリカは一部の(名誉ある犠牲という名の)損失で済むが、日本は一瞬にして首都東京を失う。
 つまり、現実は漫画やドラマよりもずっと正直で単純なのである。
 「高い城の男」に寄せられたコメントに、戦争と平和という2元論では、戦争と平和という2つの要素しか存在しない。つまり、戦争と平和の上を行く何かが求められる時代だが、核を積んだ原潜では必要最低限の抑止力になるかもですが・・・”とあった。
 確かに、光があり闇がある様に、平和があるから戦争がある。これは逆も真なりである。

 今の日本は自衛と防衛の国であり、その基本理念は”専守防衛”にある。この憲法第9条にある専守防衛とは、”相手から武力攻撃を受けた時に初めて防衛力を行使し、その態様も自衛の為の必要最小限に留め、保持する防衛力も自衛の為の必要最小限のものに限る”というもので、平和憲法の精神に則った受動的な防衛戦略の姿勢でもある。
 だが、あくまで平和が前提での憲法で、「沈黙の艦隊」的な事が実際に起きたら、ドラマの様に自衛と防衛では限界がある。つまり、護衛にも力が必要なのだ。
 現実なら、”やまと”の護衛に回った”たつなみ”は沈没したであろうし、その”やまと”も核弾道ミサイルを放ち、運命を共にした筈だ。それに”戦争のない世界”なんて出来すぎた妄想に過ぎない。

 つまり、”戦争のない世界”では”戦争の上を行く”世界は作れない。
 確かに以前には、外交の力で”戦争のない平和な世界”を何とか構築しようとの試みはあったが、ロシアやイスラエルの横暴や中国の力による南シナ海の支配を考えると、今は”戦争の上を行く”世界を作る必要があると思うのだが・・・
 ドラマの中のベネット米大統領は、”今の日本の平和は誰のお陰だ”と問いかけるが、これこそがアメリカの本音であり、日本に対する脅迫でもある。一方で、”日本が平和なのは政治家のお陰だ”というのも日本政府の本音でもあり、国民に対する威嚇でもある。
 つまり、戦争と平和という二元論では、武力と権力いや脅迫と威嚇という野蛮な圧力が不可欠となる。故に、”戦争に勝つにも平和を維持するにも力が必要だ”という大国の古典的な論理が成立する。

 ドラマ「沈黙の艦隊」では、少しでも反論すると、”戦争がしたいのか?テロリストに成り下がったのか?”アメリカは揺さぶりを掛けてくる。一方で、沈黙も力である。
 因みに、”沈黙の艦隊”の英訳”SilentService”は潜水艦戦力を意味するが、戦争の上を行く力としては、明らかに力不足である。


戦争抑止力としての数学力

 そこで、戦争抑止力として数学的思考が使えないだろうかなって事になる。
 因みに、日本の数学者のトップは世界でもトップレベルにあるが、大衆レベルとなると非常に心もとない。というのも未だに”数学は数の学問”とみなされてるからだ。
 例えば、不可能とされる問題を次数を上げる事で可能にする。かつてのフェルマー予想の様に、簡単に解決できる筈の問題が次数を1つだけ上げた事で未解決問題となる。
 つまり、今そこにある戦争を防ぐには、次元を1つ繰り上げて考える必要がある。少なくとも”戦争はいけません”とか反戦の歌を叫んでも、何の解決にもならない。
 かつてのウィ・ア・ザ・ワールドは24時間テレビと同次元の粗末なお祭りに過ぎなかった。

 大国の古い論理では、力こそが戦争を抑止する最大の武器なのだから、その裏をつけば、現代の数学力は戦争抑止力になれる筈だ。
 つまり、平和も外交も力が必要なら、今は数学力こそがその力に置き換わるべき時だろう。まさに、方程式のガロア群ではなく、戦争抑止力としてのガロア理論。故に、現代数学はそこまでの高みを目指すべきだろう。
 大国が自慢する武力と数学力を(ガロア群の様に)1対1に対応させ、武力を解体させ、無効化する。

 例えば、限りなく拡大する戦争をその構造に置き換え、ガロア群を恒等写像にまで分解・縮小させた様に、戦争を分解最小体にまで縮小させ、戦争を無効化する。
 一方で武力は有限だが、数学的思考は無限に展開する力がある。更に言えば、ガロア理論の様に、終りなく延々と続く戦争の構造を有限個のパターンに置き換え、それらのパターンを1つ1つ検証し、分解し潰していく。
 しかし(コメントにある様に)現実は、戦争の多くはプーチンの様な暴君が仕掛けるから、正則関数を解析する様には行かない。つまり、戦争が正則で解析的という条件がついて、初めて解析でき収束可能になろう。
 でも悲しいかな、現実にはアメリカの力がない限り、プーチンを追い詰める事は不可能に近い。仮に、アメリカに力があったとしても、力の論理は永久に繰り返され、本当の意味での戦争抑止にはなりえない。

 もし、数学に戦争抑止力があるのなら、その難しさは世の為、人の為にある難しさであり、克服すべき有機質な難しさでもある。いやそうでないなら、単に難しいだけの無機質な学問となる。
 数学という学問がどれだけ人類の為に役に立つのか?今は真剣に考える必要があるのではないだろうか。


最後に〜平和よりも調和の時代

 そこで個人的な意見だが、平和の代わりに”調和”を求めるのはどうだろうか。
 つまり、”平和が戦争を前提とする”のに対し、”調和とは矛盾や衝突がなく纏まってる自然な状態”である。 
 以下「平和と調和、それは似て非なるもの」では、平和(PEACE)と調和(HARMONY)の違いを見事に表現している。 

 平和も戦争も所詮は人が作った概念で、その視野は2つの点が繋がった直線的(又は平面的)な概念に過ぎない。それを立体的に絡み合う現実世界に当てはめようとしても、矛盾やシワ寄せが現れる。
 一方で調和は、ある現象の状態を表した言葉で、それは自然が季節と共に変わりゆく流れであり、多様な生き物が共存する森や自然が創った形そのものである。
 こうした自然の中に多く見る事の出来る調和は、どこにも無理はなく、それでいて完璧としての体を成す。つまり、人間も自然の一部と見るなら、我らも調和の渦の中にいるべきなのだろう。が一方で、調和とは人間を抜きにした方が理解しやすい概念でもある事は皮肉にも映る。

 言い換えれば、人が持つ様々な個性を取り除き、同じ形に統一して”平ら”にし、問題が起こらない世界が”平和”であり、色んな個性がそれぞれの違いを認めそして”調べ”、自然に溶け込む世界こそが”調和”と言える。
 そう、世界は全体として1つのメロディーを成す。一方で、平和的解決と言っても(人為的に作られた)戦争を鼓舞するリズムに過ぎない。つまり、平和的解決ではなく調和的解決こそが今の時代に求められるのではないか。

 そこで、戦争と平和をXY平面とし、調和をZ軸とする。これだけで3次元の世界が出来る。色んな矛盾やシワ寄せはあるだろうが、Z軸でバランスをとれば、少なくとも戦争と平和という2元論の世界を回避する事は不可能じゃない。勿論、可能とも言い切れないが・・
 調和はハーモニーだから、この世界には貧乏人もいれば金持ちもいるし、様々な人種や民族が存在する。植物や微生物が繁茂すれば、人類はそれらを頼って生き延びる。それぞれが調和とバランスを保ちながらお互いを認めあい、メロディーを奏でて存在する。

 たとえ平和ではなくとも、調和がとれてるだけでいいじゃないか。少なくとも、平和という偽善な言葉は調和とは相容れないし、戦争を呼び込む為の平和でならない方がマシだと言えなくもない。
 つまり、人は自然に対峙するではなく、自然に溶け込むべき存在なのだろう。