象が転んだ

たかがブロク、されどブロク

数学は偶然の上に卵を生む”その1”〜「ドランカーズ・ウォーク」は”たまたま”の神秘を科学する


 人は”情け”のある生き物である。
 が故に、”直感”という流れに抗うのは困難であり、人間の思考がランダムな事象には上手く対応できなくなる。更に、偶然が絡むと思考のプロセスに重大な欠陥が見られるからだ。
 つまり、人間の脳は1つの出来事に対し、1つの明確な原因を作る様に出きている。故に、人は無関係でランダムな要素の影響を受け入れる事は容易ではない。
 こうした事は、数学の領域では1930年代には既に知られていた事だが、今では認知心理学行動経済学・現代神経科学など多くの学問的領域からも得られている。だが、この教えが学問上正しいと認められてるものの、大衆には上手く伝わっていない事も事実である。

 私達は、成功や失敗は優れた才能や酷い無能からではなく、偶然から生まれる事が”ままある”事を、先ずは理解する必要がある。
 ランダムなプロセスは自然の基本であり、我々の日常生活にはよく見られる事だが、殆どの人はその事を理解してはいない。
 ”ドランカーズ・ウォーク”とは、”ランダムな分子の動き”を表現する数学用語から来ている。だが、この数学の言葉は私達が生まれてから死ぬまでの、人生の道程に対する隠喩にもなりうる。事実、ドランカーズ・ウォークを理解する事は、日常生活の出来事を理解する上でもとても重要なツールとなる。

 「ドランカーズ・ウォーク(たまたま~日常に潜む”偶然”を科学する)」(レナード・ムロディナウ著)では、偶然の確率を支配する原理やそうした概念の発達について、政治・経済・スポーツ・レジャーなどの人間の営みの中で、それらがどの様に関わってるか?を述べたものである。更に、ランダムネスと不確かさを前にした時の選択の仕方や、我々を誤った判断や不幸な決断へと仕向けるプロセスを説明したものである。


偶然か?必然か?それとも単なる確率か

 この様に、序章を纏めただけでも本書の大まかな流れは理解できそうだが、なぜヒトは偶然(たまたま)を必然(やっぱり)と勘違いするのか?本書では、数学に裏付けされた確率や統計を使い、日常に潜む”たまたま”の本質とカラクリと解説してくれる。
 我々の日常がいかに偶然の働きに影響されてるかが本書の主題だが、あらゆる場所や物事に偶然が存在するのに、我々ははそれを偶然だとは思わない。それを自身の実力や能力と勘違いし、”たまたま”を間違った確率で計算し、それが途方もない確率である事を知る。
 この様な偶然を奇跡だ信じ込み、或いは必然を”たまたま”だと取り違える。言い換えれば、人は如何に情という直感に弱い生き物であるかが理解できる。

 例えば、”空前の大ヒット映画が誕生した”とか”ひいきのチームが20連敗する”とか、偶然が支配するランダムな世界では当り前なのだ。
 我ら人間はこうした出来事に出会うと、”ヒット作を送り出す人は凄い才能を持つ”とか”監督が悪いから20連敗する”とか万馬券にでも当たれば俺にはツキがある”などと考えてしまう。でも確率で言えば、映画が大ヒットする事も、20連敗するのも十分に起こりうる事である。決して、必然とかの問題ではない
 従って、こんな不確かな世界で真っ当に生き抜く為に何が必要なのか?を行動経済学・心理学・確率・統計学・物理学…とランダムネスや偶然に関わる科学を総動員し、日常の根底にある”偶然の神秘”を明らかにする。
 また、それら偶然を上手く認識できない人の為に、確率や統計を判り易い思考のツールとしてユニークな形で提供し、その一方で、確率ではパスカル、ベルヌーイ、ベイズ、統計ではゴールトン、ケトレー、カール・ピアソンらの業績と人となりを紹介し、確率・統計の専門的副読本としても、実に上手く仕上がっている。

 本書の中核をなす”ランダムネス”だが、元はと言えば、植物学者のブラウンが顕微鏡で花粉の小粒子がランダムに動いてる現象を観察し、ブラウン運動を発見した。その後、アインシュタインはそのメカニズムを数学的に解明し、統計物理学の発展に繋げた。更に、複雑性の研究や社会や人間の行動に関する興味深いランダムネスの事例が、本書の中で数多く紹介されている。
 我々は、現実や人生の中で起きるあらゆる事象については結果を批判し、その結果には説明できる理由があると考えがちだが、その背景にはランダムネスが常に存在する。

 人生の成功にも悲しい出来事にも、ランダムな作用がある事を説く科学者らしい人生観には脱帽だが、著者ムロディナウ氏の父親がドイツのナチ兵から生き延びた事が偶然の産物だった様に、”仮にあの戦争がなかったら、NYに移住する事もなかったし、今の私もなかった”と語る。つまり、戦争は1つの極限状況だが、生活における偶然の役割は極限に根ざしてる訳でもない。
 従って、人生の輪郭はどう対応(選択)するかで運命が決まる、幾つものランダムな出来事によって、ローソクの炎の様に絶えずランダムな方向へと揺らぐ。故に、人生は予測し難く、解釈し難くもあるのだ。
 故に、ある出来事における偶然の役割に対する解釈は、色々に読めるものではなく、正しい解釈と間違った解釈があるのみとなる。


成功したけりゃ場数を踏め?のウソ

 元IBMのCEOトム・ワトソンJrの”成功したければ、失敗の割合を倍にしろ”の言葉に我々は勇気づけられるかもだが、所詮は成功への強欲と経験から来る言葉でしかない。
 むしろ、数学者で哲学者でもあるバートランドラッセルの”我々はみな愚直なリアリズムであり、物事は見える通りとの信条から始まる。故に、直感と経験から得るものとは酷く異なるものだ”との言葉の方が合理的で強い説得力を持つ。勿論、直感と経験だけで物事の本質を暴ける保証もないのだが・・・

 人間の直感がアテにならないのは数学の世界でもよく知られるが、状況や結果を自分に都合よく解釈する生き物である事も思い知るべきだ。が逆に、統計や確率による数学的思考が如何に合理的で強力なツールとなりうる事も理解すべきである。
 一方で、人間の脳の仕組みや処理の仕方は複雑過ぎて、偶然に遭遇した時に多くの人が陥る誤謬や誤解は避けられない。特に、直感による判断は(情を司る)”温かい脳”によるもので、人に情緒がある限り、直感による勘違いにしばし苦しめられる。が故に、我ら人間の解釈や判断や認識は、常に思い違いや過信や誤謬に晒され続けてる事も知る必要がある。
 つまり、情けや思いやりは、偶然に対する思い違いや誤解を生み易い事も留意すべきだろう。

 一方で我らは、結果から幾らでもその状況の原因や要因を導き出そうとする。更に、その結果が必然である様な説得力あるストーリーやプロセスをも描き出す。でも、原因や要因はそれが起きた時には、その周りには無数の条件やその他の要素の1つとして現れる事も知っておくべきだ。
 その中の1つを原因や要因とするのは、あくまでも結果によるもので、”未来は起こってからしか理解できない”。つまり、偶然にもバイアス(傾き)が掛かり、そのバイアスを理解するには結果論に頼るしかないけれど、現代数学はそれをも数値化する。
 ”偶然を科学する”とはそういう事である。

 以下に、そのいい例を示す。
 数学者のジョージ・ブラウンは”0と1が
ランダムに10の100万乗個並んだ数列には、0が連続して100万個並んでる個所が、少なくとも10か所は存在する筈だ”
と語る。
 これは、”たまたま”0が100万個並んでる個所に出会してるだけで、より俯瞰的な”ランダム”の中にいるにだけなのに、これをランダムとは認識できない。故にブラウンは、ランダムさに意味を見出し、ランダムさの中から必然を導き出したのだ。
 例えば、本書の第9章(パターンの錯覚と錯覚のパターン)の”ミラーの真実~成功は偶然による”では、15年連続で株式市場を打ち負かし続けた”伝説の男”ビル・ミラーは、実力でそれを成し遂げたのか?
 多くのメディアは”偶然だけで15年連続成功する確率は37万分の1”などと絶賛したが、この確率は本当に正しいのだろうか。
 こう書くと、彼に備わる超能力による賜物だと我々は思い込むだろう。だが、実際の確率は何と75%にも上ると言う。
 そこで、この偶然のカラクリを説明する。

 

成功は偶然による?ビル・ミラーのケース

 実際、仮に1991年の初めとビル・ミラーという特定の年と人物だけを選び、選んだその”特定の人物”が”その年”から15年間の純粋の偶然で市場を打ち負かす確率で言えば、天文学的に低かったろう。つまり、1年に1度、15年間コインを投げ、全てオモテが出た場合と同じ確率に近い。
 しかし、(第1章の)”ロジャー・マリスの本塁打の分析”にある様に、それは正しい確率ではない。因みに、ルースの時代からステロイドの時代までの70年という期間で考えれば、年に40本打つ選手が60本以上を打つという”偶然は時にランダムな急上昇を描く”との視点で言えば十分に予想される事で、その確率は50%を僅かに上回る程だとされる。
 つまり、我らはコイン投げの確率を、マリスの並外れた偉業とを勘違いしてるのである。
 因みに、”泣く子も黙る”大谷の2刀流で言えば、ニグロリーガーたちは毎試合の様に、内野でローテを回してたから、その時代だけで言えば”100%可能”だったとなる。

 話を元に戻すが、現在は6000以上のファンド・マネジャーが存在するから、連続記録との偉業が達成されてたかもしれない”15年の期間”は多数存在する。故に、適切な確率は、6千の人間が年に1度コインを投げ、それを何十年と続けた場合、そのうちの1人が15年間全てオモテを出す確率はいくらか?を計算すべきである。故に、その確率は単純に連続15回オモテを出す確率より遥かに高くなる。
 具体的に説明すると、仮に1000人のファンド・マネジャーが1991年から毎年1度コインを投げたとする。つまり、15年後”特定の1人が”全てオモテを出す確率は、2¹⁵=3万2768分の1となる。が、1991年にコインを投げ始めた”1000人のうちの誰か”が全てオモテを出した確率はずっと高くなり、約3%となる。
 更に、1991年にコイン投げを開始した人間だけを考える理由はない。それは、ファンドマネジャーは90年代にでも70年代にでも、いずれの年にでも始める事が出来るからだ。

 そこで著者は、過去40年の中で”特定のマネジャーが”偶然だけで”15年間”毎年市場を打ち負かす確率を計算し、この40年という幅が先の確率を押し上げ、およそ3/4(=75%)にも達するのだ。
 我々はミラーの連続記録に驚くというより、もし誰一人、ミラーの様な記録を達成しなかったら、高給取りのマネジャーが”偶然に任せるより悪い仕事をしていた”と理路整然の如く文句を並べただろうに・・・

 全く、こうした勘違いは至る所で見かける様な気がする。
 ”もし株を眺め、勝ち馬を選ぼうとする人が1万人いるとすれば、1万人のうち少なくとも1人は偶然だけで成功する。それが起きてる事の全てで、所詮はゲームであり、偶然の作用であり、我らは何か意図的な事をしてると考えがちだが、実はそうではない”とノーベル経済学受賞のマートン・ミラーは語るが、偉大なる成功も屈辱的な敗北も、全体から見れば”たまたま”の産物に過ぎない。
 だったら、”努力してもしなくても一緒なのか?”という様なある種の諦めや短絡的な厭世観に帰着しそうだが、努力とは必然な行為であり、偶然とは切り離して考えるべきである。
 従って、努力しないでも成功する人は存在するし、努力して成功する人も当然いる。一方で、努力しても成功に程遠い人が大勢いるのも現実である。言いかえれば、努力しないで全てを運に任せるのも人生だし、努力に全てを捧げるのも人生であり、努力に全てを裏切られるのもまた人生である。
 しかし、偶然の科学を理解する事で、”たまたま”の重要性を認識する事は、人生を合理的に効率よく生きる為に道標にはなる。


最後に〜”たまたま”ほど偉大なものはない

 そこで重要なのは、過去から原因や要因を導き出す事は可能だから、結果だけを見て、その人の能力を判断・評価する事は危険だという事だ。
 事実”スコアボードを見るよりも能力を分析して人間を判断する方が信頼できるし、結果を元に人の行動を賞賛すべきではない”という著者の言葉には重い説得力がある。 
 更に著者は、”過去を説明する話を考え出し、将来を予見する曖昧なストーリーに確信を抱く事は簡単だが、そうした努力が無駄である事を意味しない。しかし、直感的誤診に陥らない様に、解釈も予言も懐疑心を持って見る事は可能である。
 つまり、出来事を予言する能力に頼るではなく、出来事に対応する能力に柔軟性・自信・勇気・忍耐の様な人間的性質に、注意を向ける事ができる。
 そして、人のこれ見よがしな過去の業績よりも、直接的印象により多くの重要性を置く事で、自動的な決定論的枠組みの中で判断するのを食い止める事が可能となる”
と語る様に、我々は人をちゃんと見て、その人の人間性に目を向けるべきなのだろう。

 科学書にしては、目にウロコ的な話の連続で、日常に当り前の様に潜む”たまたま”が如何に奥深く深遠な世界である事を今更だが思い知らされる。
 邦題は「たまたま〜日常に潜む偶然を科学する」だが、私は敢えて”数学は偶然の上に卵を生む”というタイトルにした。
 これは「カッコウはコンピュータの上に卵を生む」(クリフォード・ストール著、1991年)を捩ったものだが、80年代後半のコンピュータが一般に普及してない頃のハッカーの実情を描いた本だが、とても衝撃的に映ったのを覚えている。
 それから、20年近くが経ち、”偶然を科学”する時代が到来する。ハッカーはネット上に卵を産む事で繁殖し続け、未だに旺盛を誇っている。一方で、数学は偶然を記述し、ランダムさを科学する事で、目に見えない未来を予測する事を可能にした。
 つまり、数学は偶然の上に卵を産む事で、ランダムさの中に潜むバイアス(偏り)やバラツキやパターンをも科学の対象にし、更には偶然に潜む錯覚や誤解までも解明しようとしてる。

 こうした諸々の要素を含む偶然を、我らは”たまたま”だと軽視し、大きな落とし穴にハマってしまう。
 人生に失敗があるとすれば、こうした偶然を甘く見る事であろう。つまり、”たまたま”は私達が思う以上に奥深く末恐ろしい生き物なのかも知れない。
 2009年出版と少し古いが、こうした事が判っただけでも、傑作の部類にはいる科学本とも言える。 
 本書には、”たまたま”を数学や確率・統計学的に解釈しようと挑んだ天才数学者らが遭遇した喜悲劇など、面白い話が幾つも収められている。どれか1つでも知ってれば大いに自慢できる筈だが、次回では、そのうちの幾つかを紹介する。