象が転んだ

たかがブロク、されどブロク

正義を信じるとバカを見る〜「リチャード・ジュエル」が露呈したアメリカの正義の脆弱さと軽薄さ


 ここ最近、殆ど映画を見なくなった。高校の頃は授業を休んで劇場へ観に行ってたのに、昔のように心がときめかなくなった。
 それに昔は活動写真の様な特異な雰囲気があった。でも今はTVゲームみたいで、軽薄な娯楽に成り下がった様な気がする。
 そんな私でも、クリント・イーストウッド監督の作品はできるだけ見るようにしてる。勿論、劇場まで足を運ぶ筈もないが、TVで放送してれば必ず見るようにしている。

 そこで今日は、映画「リチャード•ジュエル」(2019年)の紹介です。
 1996年のアトランタオリンピックで爆発物を発見し、多くの人命を救った英雄であるにも拘らず、FBIやメディアに容疑者と見なされた実在の警備員リチャード•ジュエルを描く(Wiki)。


ヒーローから一転して容疑者へ

 第一発見者から第一容疑者堕ちたジュエル。それは、ジュエルが警備員として勤務してた大学の学長が、一躍ヒーローとしてTVインタビューを受ける彼を見て、FBIに通報した事から全てが始まった。
 以下、”正義を安易に信じるな”から一部抜粋&編です。

 大学に勤務していた当時のジュエルは、様々な問題を抱えていた。そこで彼に爆弾犯の可能性がある事を学長が指摘する。
 敏感に反応したFBIは、学長の身勝手な憶測を正当化する為、プロファイリングを強引に適用した。プロファイリングとは、聞こえはいいが、犯罪のデータベースを活用し、犯人像を割り出す統計学的手法で、そこに何ら科学的根拠はなく、単なる決め付けである。
 しかしプロファイルとは言え、”黒人を見たら泥棒と思え”という極端な人種差別と何ら変わりはない。つまり、”通報者を見たら犯人だと思え”と同じである。

 過剰な正義感、孤独、独身、貧困白人、さらにマザコン、肥満等のジュエルのデータが、”テロの犯人像”のデータベースと合致した。
 FBI捜査官は、南カリフォルニアで発生した山火事で、自ら火を放った直後、消火し英雄となった消防士のケースや、ロスオリンピック開催中にバスに爆弾を設置し、直後に発見してヒーローとなった警備員のケースなどを仄めかす。
 一方でアトランタジャーナルは、過去にもこのFBI捜査官から特ダネをゲットした事があった。そこで、同紙の第一面に”ジュエル容疑者説”を掲載。やがてそれはメディア全体に広がり、国際ニュースにまで発展する。
 因みに、地元で開催されるオリンピックは、ローカルメディアの”蘇生の好機”で、世界中の視線が集中する。そこで起きたテロ事件だ。たとえ確証はなくてもいち早く犯人を特定し、自らの存在価値をアピールする絶好のチャンスでもあった。


物事も正義も単純じゃない

 この作品の核心は、ジュエルを決して清廉潔白な人間ではない事を描いてる点だ。そして、物事を安易に白か黒かで処理しようとする現代人に対し、多少の問題だけでテロリストとして断罪される矛盾をさりげなく突きつけている。
 つまり、正義ほど怪しいものはない。(ジュエルの様な筋金入りの)正義がいつテロリストになってもおかしくはない現実が、アメリカには存在する。

 このジュエルを演じるポール•ハウザーは、アメリカの白人貧困層に属する様なキャラクターを得意とする。
 そんなジュエルを信じ、共に権力とメディアと世論に立ち向かっていく弁護士を演じるサム•ロックウェルの温かみも、この作品に独特の優しさをもたらしてる。 

 正義という真っ当な感情も今や軽薄化し形骸化しつつある一方で、温情という温かい熱情が全てを包み込む様な作品でもあった。
 以上、CINEMOREからでした。


最後に〜主張しないと権力は暴走する

 最後にジュエルが、”オレは爆弾犯なんかじゃない”と堂々と言い切った所に、この映画の本質が見え隠れする。つまり、正しい事をしたのであれば、堂々と主張すべきなのだ。それこそが真の正義だろう。

 今の日本には、”いいものはいい、悪いものは悪い”と堂々と主張できる環境がなくなってきてる。メディアも同様だ。
 権力を批判し、悪いものは悪いと言えば、誹謗中傷や”批判キャラ”として煙たがられる。最悪、”アンタは何様だ”とネトウヨ的なコメントが届く。
 勿論、物事も正義も単純じゃない。批判だけでは世の中は良くはならない。しかし、批判がなければ、権力はのさばり、格差は広がるばかりだ。

 権力を批判する位なら、権力に群れた方がずっと楽で平和でカッコいい。メディアも大衆もいつしか、権力を批判する事を忘れてしまった様な気がする。
 勿論、香港デモみたいに雨傘を振りかざす必要もないし、暴力に訴えるつもりもない。権力に群がる連中を”何様のつもり”と口撃するつもりもない。
 しかし、主張するのを怠ってしまうと、権力を批判する大衆は皆、ジョエルみたいに容疑者に吊り上げられてしまう。
 権力を正義とみなす人種はメディアも含め、慢性化した権力批判を誹謗中傷とみなす。

 与党を延々と批判するだけの野党を日本人の2人に1人は、”野党に何が出来る”と言い放ち、(権力のある)自民党にしか出来ない事があると高を括る。
 つまり、権力を批判する事を忘れた時、権力は暴走する。そうなったら、大衆の力で止める事は不可能だ。権力は破壊力を増し、大衆を蹂躙する。

 主張しないと権力は暴走する。そういう事をしっかりと教えてもらった作品でもあった。


追記〜権力のおぞましい構図

 この作品は、ある意味権力批判を描いた作品でもある。権力が大衆を扇動し、弱い立場の一人の人間を窮地に追い込む。映画でも実際にも、弁護士の熱情が支えとなり、ジュエルは堂々と正義と無罪を主張し、ギリギリの所で窮地を逃れた。
 ”権力者は何かで非難されても、彼らには金があり、優秀な弁護士を雇う事が出来、起訴を逃れる事が出来る。しかしリチャードはあらゆる意味で苦しめられ、周りには、彼を一斉に責めるべき空気が出来上がってしまった”とクリント・イーストウッドは語ってます。
 つまり、権力者はどんな悪事を犯しても、金があるから簡単に逃げれる。しかしリチャードは権力も金もない普通の市民で、爆弾を発見し、人々を安全に誘導する事は警備員の務めだ。彼は自分の仕事をしただけで、英雄に祭り上げられ、犯罪の容疑者に吊るしあげられた。
 これは現代の権力の暴走を、そのまま露呈している。
 以上、寄せられたコメントから追記でした。