
連日、”マクドナルド”カテゴリを訪問して下さって有難うです。やっと思いが通じたみたいで嬉しいです。これをカポーティ風に”叶えられた思い”と言うんでしょうか(笑)。
さてと、レイ・クロック(イラスト左)とハリー・ソナボーン(中)の対立は”番外編その3”でも既に述べてますが。その直接の原因が実は、1965年4月15日のマクドナルドの記念すべき”株式上場”にあったんですね。この2人の対立はマクドナルドの運命を大きく変える事になるんですが。前回と異なり、今回は2人を平等で客観的に見た感じですかね、少し堅い内容ですが、宜しくです。
マクドナルドは毎年のクリスマスに、重役や幹部それにその奥様方を招待するのを恒例としていた。
勿論クロックにとっても、2番目の妻ジェーンを披露するに絶好の機会でもあったんですが。
クロック新夫人にとって、旦那が主戦場とする西海岸の店主とは面識はあったが、ソナボーンが支配するシカゴ本社の重役とは初対面です。
当然彼女は、この2人の対立を心得ていた。このパーティーでの関心も、専らその1つの事に絞られてた。
”どちらが主人の側で、どちらがソネボーンの側なのかしら?”
既に、クロックとソナボーンの不和は全管理職に伝染してたが。西海岸とシカゴで二派に別れ、対立してたのではなく、両サイドの部下がクロックとソナボーンから別々の指示を受けていたのだ。
つまり東西マクドナルドの溝は相当に深刻で、営業を牛耳るクロックと財布の紐を握るソナボーンの対立は、自ずと部下を巻き込み、何時分裂してもおかしくはなかった。
株式上場________________
二人の対立は、”番外編”でも述べた様に、正反対な性格に起因する。それでも最初の数年間は、秘書で経理のジューン・マルチーノ(イラスト右)が間に入り、ギスギスしつつも何とか平和な実のある二人三脚が保たれてはいた。
しかし上述した様に、マクドナルドの株を上場すると同時に、2人のバランスは崩れ始める。勿論、マクドナルドの不動産分野への参入、NY証券取引所への上場、ネットワークTVへの進出、いずれもソナボーンの手腕によるものですが。少しワンマン過ぎたんですかね。
クロックと直接競う合う最大の原因になったのが、ソナボーンが株式公開を決断した事。1960年マクドナルドのCEOに就任したソナボーンは、前年の1964年には株式公開を思案する。
マクド社の財務経営面における突破口を次々と切り開いてきたソナボーンにとって、この株式公開は一連の政策の仕上げとなるものだった。
勿論、実利もある。上場当時の持株比率はクロックが52.7%、ソナボーンが15.2%,、ジューン・マルチーノが7.7%。これが上場により現金に変わるのだ。この時点で3人は億万長者な訳だが、これまで死ぬ程までに働いてきた報酬として、これ程のご褒美はないですがね。
”ゲティ家の身代金”でも述べた様に、大金は人間を歪め不幸をもたらすんです。
ソナボーンは堂々たるプロの経営者たりとしていた。大企業の如く、財界人のエリートサークルに顔を出し、財界や法曹界の大物との交遊を楽しみとした。
その上、マクド本社オフィスの内装すら変えた。床はダークグリーンのカーペットに、壁は濃い色のマボガニー材で統一する。かつての庶民的なフードチェーン本社という面影は全くない。まるで伝統を誇るガチの法律事務所といった趣だ。
本社の社員達が家族の様にしっくりと結ばれてたのは過去の話。今では官僚機構さながらの組織図が大手を振ってまかり通っていた。
ソナボーンは、トップ人事にトロイカ体制を取る。財務・経理にはボイラン、営業とマーケティング&社員教育にはターナー、不動産&建築部門にはピートクロウをトップに配し、それを彼が統率する。
この新組織にはそれぞれ均等の権限と責任が持たされ、3人の意見の一致のみが決定権となった。
新人事と同様、スタッフも改新&強化された。それまでハンバーガーとは全く無縁の会計士、弁護士、監査や証券部門の連中が幅を利かせる様になる。
株式上場に伴い、証券取引所や株主総会に提出する書類作成一つをとっても、それだけで十数人のスタッフが必要になった。以前は、事務で頭を悩ませる事も時間を取られる事もなかったのに。”余計な仕事増やしやがって、インテリ野郎が”というとこですかな。
この株上場に纏わる変化こそが、ソナボーン体制の下で起きた大きな変化だったのだ。そして彼自身の首を絞めていくんですが、これも運命の皮肉というか。
性格の相違?______________
ソナボーンの経営は、いかにも最先端をいくプロフェッショナルそのものだった。一方クロックは、依然として古臭い野蛮な起業家魂を失ってはいなかった。
チェーン拡大にても、ソナボーンは慎重であり、自ら築き上げた土台を崩さまいとすれば、クロックは大規模な土台作りを目指し、一層大きなリスクを犯そうとする。
ソナボーンは専ら、シカゴやウォール街の証券マンに応えた。一方クロックは消費者のみに応えた。会計士や税理士や弁護士を”上場の要”と考えるソナボーンに対し、クロックは彼らを”必要悪”とみなした。
カルフォルニアに居を構えるクロックは個々の店の営業にまで首を突っ込んだ。一方、加盟店に無関心なソナボーンは、益々店からも営業からも遠ざかる。
こうなれば、二人の服の趣味さえも折り合わない。クロックがラフな高級スポーツジャケットを愛用するのに対し、ソナボーンは細縞のスーツに凝るといった具合。
ターナーは、当時の2人の事を次の様に振り返る。”株を公開すれば、自然と会計士や税理士の発言は増大する。そこでクロックは、彼らに会社を奪われない様に、その影響力を巧みに遠ざけたんです。逆にソナボーンは、すっかり彼らに感化されちゃった。彼の口に出るのは、小難しい法律用語や証券取引の専門用語ばかり、流石に誰もがうんざりでしたよ”
ソナボーンは、全てが組織を通して行うべきで、創業者クロックの気紛れを軽視した。”会社の最終決定権は経営最高責任者の私にある”と言い放った。
彼は自分の肩書に見合った特権に固執したんです。
しかし会長のクロックは、ソナボーンの”自惚れ”を全く受け付けない。”オレこそが創業者だ。マクド株の43%を持ってるし、これはオレの会社なんだ”
実際クロックは、全マクドナルド店を自分の店だと考えてた。彼が強調するQSV&V(品質・サービス・清潔・価値)が守られてれば、それだけでよかった。その思いはイラストのケーキの文字に強く現れてますが、それを苦々しく思うソナボーンの敵意視線にも注目です。
クロックにとっての大衆とは、ハンバーガーを買いに来る客であり、株を買う顧客ではない。それに創業者クロックにとって肩書は二の次であった。ソナボーンがどんな肩書だろうと、クロックがボスである事を皆が認めてさえすれば、それでよかったのだ。
マクドナルドの株が公開された後、二人は互いに口を聞かなくなった。マクドナルドは成功したが、トップ二人の意思疎通すらままならなかった。
前述した様に、マルチーノ嬢が2人を結ぶ橋渡し役を務め、冷戦中の2人に平等に尊敬を払う、唯一の人物だったのだ。彼女は自ら責任を被り、2人の誤解を戦争に発展する瀬戸際で、何度も食い止めた。だがそれにも限界があった。
”ありのままの2人が好きだったし、尊敬してました。だから2人の不仲はとても辛かったわ”と振り返る。
これこそが2人の対立の全てだった。ハンバーガーの売上こそが全てというクロックの哲学と、フードチェーンとは時代遅れで、幹部機構さえしっかりと機能してれば、利益は自ずとついて来るというのがソナボーンの哲学だ。つまり、ハンバーガーの売上が落ち込んでも不動産という強い武器があると。
拡大策を巡る2人の攻防__________
ソナボーンは支出をできるだけ抑え様と、60年代半ばから急速に収益を上げるにつれ、それを守る方に力点をおいた。つまり、過剰投資によるリスクを避け、蓄積した現金を元に、より安全な拡大策を立て、徐々に負債を減らしていこうと。
2人の確執の中でも、店舗拡大をどれ位のスピードで行うかが最も深刻な問題であったが。この60年代の中頃になると、急成長が故に、店舗拡大も大したリスクではなくなってた。
しかしアメリカは、依然としてファーストフード業界では、処女地に等しかった。持ってる資力よりも掴んでるチャンスの方が大きく、拡張による失敗のデメリットは小さかった。
だが会社の株が公開されると、状況は一変する。経理と営業の両面で、これまで以上に発展を強いられる必要に迫ったのだ。ある程度の成功を収めたが故に、拡大が裏目に出ればリスクも大きくなる、というデメリットも背負う様になる。ソフバンは大丈夫っすかね。
故に、ここにて初めてクロックの信念とソナボーンの数字とが正面衝突する。クロックはこの成長が天井知らずと見れば、ソナボーンはこれが限界と判断した。
ソナボーンは不動産戦略にては大胆な財政策を取ってきたが、マクドナルドが揺るぎない地位を築き上げるに連れ、財務を厳しく統制した。失うものがあまりにも大きくなりすぎて、彼は典型の”締まり屋”(ケチ)になってしまった。勿論、経理に疎い創業者を持つ会社には、彼のような”ケチ”は不可欠な存在ではあるが。
ただ、これまで失敗例が殆どない急成長の会社にとって、ソナボーンの引き締めはどう見ても場違いで、不自然に思えたのも事実。
通常、財務基盤が大きくなれば店舗を増やすのが定石だが。ソナボーンのやり方はアベコベだった。事実、1962年の保険会社からの融資で懐が潤った年には、116店舗増設を記録したが。その後の3年間は新店舗の増設を渋った。最大の削減は65年の株式公開の時だった。
ギヤをトップに入れるべきチャンスに、ソナボーンはニュートラルに切り替えてしまった。この年は全731店と競合会社の数倍の規模ではあったが、前年の107を下回る81店の増設に終わる。
クロック率いる西海岸の若き精鋭達は、ソナボーンの規制を無視した。どんな地域よりも高値で店舗用地を買い漁った。ソナボーンが定める2倍の価格で買った事もある。”守り”のソナボーンを嘲笑うの様に、”攻め”のクロックは高く付く一等地にひたすら拘った。
クロックがカリフォルニアの不動産を拡大していく速度は、ソナボーンのシカゴでのそれを遥かに上回ってた。ソナボーンの”現状維持”による悪影響も、西海岸だけは完全に免れた。
ソナボーンが拡大を規制した64年から67年にかけ、マクドに加わった新店舗のうちクロック派が開拓したものは1/3を占めた。
つまり、クロックは西海岸を強打者に仕立て上げ、ソナボーンの東のマクドナルドを控えに押しやったのだ。
東西マクドナルドの冷戦________
東のマクドナルドが堅苦しさを増せば、西のマクドナルドは自由気ままな雰囲気に溢れていた。西はリスクを鑑みず、東は安全第一と。つまり、ソナボーンの守りとクロックのチャレンジという構図。
”カリフォルニアの連中は結束が強く、週末には親睦を施し、互い愉快に楽しんでいた。一方シカゴでは、火が消えた様な寂しさだったよ”とターナーは振り返る。
クロックの西海岸では、マクドナルドを安手のドライブインから”高級レストラン”というイメージに作り変えた。それまで平凡なドライブイン形式を守ってきたマクドナルドも、カリフォルニアの新しい店には洒落た中庭があり、粋な照明がつき、客は買ったハンバーガーをオールシーズンで、豪華な店舗内でゆっくりと食べる事が出来た。
この西海岸で起きた大きな変革を、クロックは敢えて強行しない。彼は”実際家”であり、衝突を冒してまでも無理強いはしなかった。クロックは強引に命令するよりも、お手本を見せる事でマクドナルドの先頭に立とうとしたのだ。つまり、マクドの斬新なモデル作りにカリフォルニアを利用したと言えますね。
クロックに引き抜かれた、ある管理職は振り返る。
”我々はシカゴでは常に緊張を強いられた。クロックはシカゴに敵意を持つのではなく、彼らを管理集団だとみなした。でも会社を分裂させるつもりはなかったんです。いつかは連中もオレに付いてくると言ってましたよ”
長くなりましたが。クロックとソナボーンの対立は思った以上に複雑で厄介だったんですね。攻めと勢いと革新と熱情のクロック爺さんに対し、守りと計算と実利とケチのソナボーン博士といった所ですかな。
でも今になって思えば、ソナボーンの方にやや分があるかなとも思うんですが。皆さんはどう思いでしょうか?