
今更ですが、2005年に出版され、累計270万部超の大ベストセラーとなった『国家の品格』の紹介です。「サピエンス全史」よりもこっちの方が品があり、日本人には説得力がありますね。
この”品格”こそが戦争の抑止力となり、欧米主導の”虚構”という合理主義を打破する、大きな武器になり得ると私も思う。著者の藤原正彦氏の数学的思考から生み出された、純朴で熱い情緒至上論に今更ですが感動です。
それに数学者が書いた本だけに爽快しまくりですが。全てが直線的な言い方なので、誤解を招くかもですが。でも今の日本人にはこれ位単刀直入に言わないと。今の日本は数学的お説教と武士道的精神が必要なのかもです。
中世ヨーロッパという蛮族の国家と歴史と
16世紀以降はヨーロッパの、20世紀以降ははアメリカの時代と言われる。欧米に駆逐されたアジアも5世紀から15世紀までは安定した時代を築いていた。しかしこの中世ヨーロッパは、小さな土地を巡り、王侯間の争いが続き、無知と貧困に彩られた蛮族の歴史だったんですね。
一方日本は、この当時既に洗練された文化を持っていた。この10世紀間で見れば、日本が生んだ文学作品の方が全ヨーロッパが生んだ文学作品よりも質量とも全然上だと、著者は語る。
文学だけではなく、中世のヨーロッパでは数学のレベルも低かった。12世紀になっても√2が有理数かどうか、つまり√2が分数で書き表せるかすら解らなかったのだ。√2が有理数でない事は、古代ギリシャ時代に既に解ってたのにだ。故に中世ヨーロッパの数学は古代ギリシャよりも遅れてたんです。
オイラーの登場で、ようやくギリシャ時代の数学に追いつき追い越す事になるのだが、そこまでに2000年以上の歳月を費やした事になる。
統一された国家という点でも、1500年にタイムスリップすれば、イギリスもロシアもイタリアもドイツも統一されてなかった。しかし日本はとっくの昔から統一国家として存在してたと。
”知の解放”とヨーロッパの躍動と
中世の10世紀間という長期に渡り、荒廃してたヨーロッパですが。まず14世紀イタリアで起きた”ルネッサンス”で文芸が復興し、躍動の起点を作ります。
続く16世紀の宗教改革では、ケプラーやニュートンらを中心とした科学革命を生み、理性が開放されると、そこで初めて論理や近代的合理精神が生まれ、これにより、18世紀から約1世紀間続いた産業革命が起きた。
その後の世界は皆が知るように、我々アジアは欧米に面白い様に支配された。
しかしここに来て、この欧米支配の綻びがついにやってきたのだ。
核兵器の乱造、環境破壊、テロと重犯罪、家庭崩壊、教育崩壊、超極端な格差社会、性犯罪の繁殖、政治の腐敗、地方の衰退と一極集中など、全てが先進国が抱える致命的な問題です。
この”文明病”という荒廃の真因は、西欧的な論理と近代的合理精神の破綻に過ぎない。でも世界はこの2つを過信し過ぎた。
論理の限界と破綻と
論理は絶対ではなく、使い方を間違うと破綻する。それは歴史を見れば明らかだ。私達を支える多くの重要な事は、論理では説明できないのだ。
悪の主義と言われた帝国主義や植民地主義も、論理という点ではきちんと筋が通ってはいる。如何に非道な事も論理が通ってれば、どんな賢い人も人格者もそれらを受け入れてきた歴史がある。
共産主義も実力主義も論理の産物ですが。旧ソ連崩壊は、共産主義という美しく立派な論理自体が、人類という種に適してない事の証明でもある。
美しく響く実力主義も、結局は野放しのケダモノ主義である事は、大量殺戮の独裁者を見れば明らかですね。”バカほど出世する”ブログも参照ですよ。
資本主義の限界と破綻と
弱肉強食に徹すれば組織は強くなるが、社会は非常に不安定になる。共産主義に打ち勝ったと勝ち誇る資本主義も、美しき論理がまかり通る。
資本主義の理念とは、”個々が私利私欲に従い、利潤を最大化すれば、神の見えざる手により社会全体が豊かになる”、との事ですが。今思うと全くの欺瞞ですな。
最近ではこの詐欺的な資本主義の理念も一歩進んで、”市場原理主義”に姿を変えた。全て市場に任せれば国家の介入はいらない。つまり、経済に関しては国家はいらない。国家は外交や軍事や治安に徹してればいいと。
つまり、市場原理主義の理念は”勝ったモン総取り”なんです。”Winner Takes All”と言えば聞こえはいいが、藤原氏が好む武士道精神からすれば、全くの卑怯行為である。
故に会社は、従業員ではなく株主の所有物となり、その株主はキャピタルゲインを狙い、会社には何の愛情も持たない。お陰で市場原理の申し子と言われる”デリバティブ”(金融派生商品)の存在が、資本主義を危険な存在に追い詰める。
かつては、先行き不安定な商品価格や金利や為替などのリスクを回避する為のものであったが、投機目的で用いられると、リスクを無限に増殖する架空の危険物になった。
この”危険物”のお陰で、大企業が次々と破綻した。エンロンの破綻は記憶に新しい。この得体のしれない金融商品の額が、世界のGDPの何十倍にも膨れ上がってる事自体、資本主義の破綻と限界を示唆してる様なもんですが。
これも金銭&物質至上主義が生み出した結果で、つまり、論理を徹底した事で生み出した破綻であり、論理自体に内在する問題がある限り、永久に解決できないと。
論理は当てにならない?
因みに論理と理論の違いをご存知だろうか?勿論私は知りまシェン(悲)。
ウィキでは論理とは、与えられた条件から正しい結論を得る考え方の筋道で、現象を合理的・統一的に解釈する為の因果関係。一方理論とは、個々の現象に適用し得るものとして組み立てられた、普遍的かつ体系的な説明・概念・知識の総体とある。何だかサッパリですが・・
そこで判り易く。論理とは、先ず論ありきで、それを正当化する為の理。一方理論とは、先ず理屈ありきで、それを論ずる事。
もっと判り易く言えば、論理とは、単なるこじつけでええカッコシイ理屈。理論とは、ややこしく気難しい理屈。
論理が当てにならない理由として、藤原氏は次の4つを上げてます。
まずは論理の限界。人間の理性や論理には限界がある。論理が正しいか否かを理性では判定出来ないと。
次に、最も重要な事は論理では説明できないと。つまり論理は世界をカバーできないし、数学ですら論理が全てではない。
これは、1931年に数学者のクルト•ゲーテル(オーストリア)が、”不完全性定理”の中で証明した。つまり、”正否を判定できない命題が存在する”というもの。数学の世界でも論理では説明できないものがあるのに、一般社会の論理に至っては判定できる筈もない。
例えば、”人殺しはいけない”を論理で説明できるのか?勿論答えはNOだ。戦争での殺戮は英雄伝だし、死刑は合法的殺人である。この様に明らかに悪い事も論理では説明できない。
つまり、”ダメだからダメだ”と叩き込むしかない。重要な事は押し付けるしかない。そこに武士道の精神が日本の国柄が道徳の高い源泉が生きてくるのだ。
論より情緒?
3つ目が論理には出発点が必要だと。先述した様に、論理は論ありきの理であり、一方通行の理である。出発点が全てとなるが故に、出発点を間違えると論理は確実に破綻する。
この論理の出発点を決めるのは、宗教や慣習的なものも含めた広い意味での情緒だと筆者は語る。つまり情緒こそが、論理の出発点を決定する。”論より情緒”とはこのコッテ。
様々な宗教にもそれぞれに固有の形があり、それぞれの文化に由来する論理の出発点がある。つまり、論理の出発点を決めるのは情緒や形なのだ。
故に、最悪なのは情緒がなくて論理的な人。冷たい脳だけが発達したサイコパスみたいな人ですな。こういった危険人種は、エリートであっても間違った出発点を選択した時点で、その後の論理は正しい程に、その結論は絶対的な誤ちを招く。
情緒が発達してれば、そんなに頭がよくなくても、論理が途中で二転三転し、最後には正しい結論に帰着するが、下手に頭が良いとそのままの論理が暴走する。頭が良くて情緒がないという人こそが危険なのだ。
”原爆の父”オッペンハイマーなんてその典型ですな。悲しいかな、論理の出発点が原爆投下だもの。しつこいですが、戦争ブログも参照ね。
最後の4つ目は、論理は長くなり得ないという事。数学の場合、各ステップは常に0か1で、どんなに複雑なステップでも0か1になる。故に、論理はいくらでも長くなり得る。
しかし現実は、1も0も存在せず、殆どがグレーであり、絶対というものは存在しない。先述した”人を殺してはいけない”も、絶対は存在しない。真っ白に限りなく近い灰色。正直だって完全美徳ではない。嘘を付かざるを得ない時はゴマンとありますね。
因みに私は、ウソの方が圧倒的に多いか。虚構に生きるタフな男なのです。実像に生きる奴は、複素解析が理解出来ない単なるバカだ。虚構に生きてこそ、我らサピエンスの繁栄があるんですぞ。しつこいですが、”サピエンス”ブログ参照です。
風が吹いても桶屋は儲からない
つまり、現実は真っ白も真っ黒もなく、全ては灰色でそこに濃淡があるだけ。
例えば、”風が耽けば桶屋は儲かる”という諺も、論理的に言えば、風が吹けば埃が立ち、目を患う。失明が増え、目が見えない人は三味線を引く。三味線の皮は猫皮なので猫がいなくなる。ネズミが増え、桶を齧り、桶屋が儲かると。
これを数学的に考えれば、風が吹くと埃が舞う確率は90%、埃で目を患う確率は10%、その中で目が見えなくなる確率は10%くらい、三味線引きになる確率も10%。以降全ての確率をかけると1兆分の1程の確率に。現実においても風が吹いても桶屋は儲かる筈もない。
この様に現実的には、論理が長くなると非常に危い。故に信用を高める為に、使える論理は短くなる。長い論理は殆ど使えない。
小学生で英語を学ぶ事が、世界に通用する国際人を育てる?という論理は、果たして本当か?英語を教える→英語が話せる→国際人になれるという2ステップの洒落た論理だが。まず最初が正しい確率は10%以下、次も10%以下、結局1%以下となり、故に信憑性はない。同じ2ステップなら、読書を奨励し、人間の中身を充実させ、国際人となるの方がずっと近道であると藤原氏。
結局、バカと論理は使えない
結局、長い論理は使えないが、短い論理は深みには達しない。故に論理とは効用が殆どないものだが、人間は論理大好きでゴマンと蔓延ってる。その殆どが極端に短い論理だ。
イジメにおいても、カウンセラーを置くという単純な論理より、”卑怯”を教える事が一番の近道だと。”虐める者は生きる価値すらない”と、とことん叩き込むべきだが、論理的でないから大衆受けしない。卑怯と甘えは俺が許さん的な武士道的な先生も必要ですかな。これまたしつこい様ですが、”若者の自殺”ブログも参照です。
結局、論理とは通れば脳に心地良いから、誰もが皆、短い安直な論理に飛びつく。故に、事の本質には到達する筈もない。論理の大半は絵に書いた餅にすらならない。