象が転んだ

たかがブロク、されどブロク

ジャンボ”鶴田最強伝説”の行方〜偉大なる昭和のプロレス”その2”


 最近は、YouTubeで昭和の時代のプロレスを見る事が多い。
 元々、ネット上に無駄に散在する不特定多数の動画はスカスカの”スマホ脳”になりそうで敬遠する傾向にあるが、プロレスやボクシングなんかはよく見る方である。
 その中でも昭和のプロレスは「その1」でも書いたが、プロレスの黄金期であり、今のそれとは一線を画していた。まるで、セメントと興行が融合した様な壮絶なファイトの連続で、当時はトップレスラーが実質的なプロモーターを務めてたから出来た芸当なのだろう。
 事実、経営者やプロモーター主導で、ショーやバラエティに特化した昨今のプロレスと比べると、贅沢で恵まれた時代でもあった。
 例えば、ローラン・ボックの殺気じみたセメントには欧州プロレスのリアルを感じたし、ブロディとマスカラスの噛み合わない不問試合にはプロレスの裏側を垣間見た気がした。ボブ・バックランドのストイックには心打たれたし、ブロディ刺殺事件ではプロレス界の複雑な闇を思い知る。それに、ウォーリアーズらの獣人レスラーも衝撃に映った。

 そこで本題だが、”日本のプロレスラーの中で誰が最強なのか?”
 こうした話題は、TVや書籍やネット上でもよくかわされるテーマである。馬場か猪木か、鶴田か天龍か、藤浪か前田か長州か、いや新旧タイガーマスク佐山聡三沢光晴か・・或いは、髙田延彦か小橋建太藤田和之か・・・言い尽くせばキリがない。
 ”本気でやって選手に怪我をさせちゃうと契約が拗れるので、一概には言えないんだよ”と語る天龍も、鶴田とプロレス史に刻まれる数々の激闘を繰り広げたレスラーの一人だが、”俺らとは違って持って生まれたものが違うんだなぁ”と、鶴田との違いをしみじみと語る。
 更に、鶴田との新旧エース対決では幾度も死闘を演じた三沢光晴”持って生まれたものが凄すぎた。レスラーに必要な能力を全て備えている”と、先輩の鶴田には感服する。


ジャンボ鶴田のプロレス”Ep1” 

 大学ではバスケットからアマレスに転向し、僅か1年半で重量級国内敵なしの鶴田だったが、1972年8月のミュンヘン五輪レスリングの日本代表の肩書きを引っ提げ、”プロレスは身体の大きい僕に最も適した就職だと思い・・尊敬する馬場さんの会社を選びました”と、同年10月に全日本プロレスに入る。
 入団後は、アマリロ(テキサス)のザ・ファンクスの元で修行を始め、(後にAWA王者となる)スタン・ハンセンや(後のWWF王者の)ボブ・バックランドとも合流。特に、ファンクスの父シニアは鶴田を見て”既にレスラーの基礎は出来ている。ここに来て僅か3ヶ月だが何も教える事はない”と評し、仲の良かったハンセンは”身体が細いのに、自分よりパワーがある”と驚きを隠せなかった。
 73年3月にプロデビュー。2ヶ月後にはドリーファンクJrのNWA世界王座に挑戦という偉業を果たし、8月にはハンセンと組み、ザ・ファンクスのインタータッグ王座に挑戦。
 アメリカでデビューして半年で150試合をこなし、同年10月に凱旋帰国した鶴田は、ザ・ファンクスとのインタータッグ王座戦で馬場のパートナーに選出。”まだ早すぎるし、プロはそんなに甘くはない”との批判が飛び交うなか、テリー・ファンクから自慢のスープレックスピンフォールを奪い、大器の片鱗を見せつけ、馬場に次ぐ全日本プロレスNo.2の地位に就く。
 翌74年の3〜4月にかけ、再びアメリカ遠征に出発し、全米各地のトップ選手らと対戦。世界王者級のタイトなスケジュールをこなす。

 70年代中盤にはUN王座戦でジャック・ブリスコを破り、初のシングルタイトルを獲得。マスカラスやハリーレイスとの激闘が評価され、プロレス大賞(東京スポ主催)では、3年連続年間最高試合・ベストバウトを受賞。 
 その後、80年代前半はNWAやAWA王座に挑戦するも、あと一歩でタイトルを取り逃がす試合を続いたが為、”善戦マン”と揶揄されたが、ルーテーズに必殺のバックドロップを伝授され、ファイトスタイルが豹変。83年8月には、インター王座をブロディから奪取し、馬場から”今日からお前がエースだ”と祝福され、全日本プロレスのエースを襲名する。
 そして84年2月、ニック・ボックウィンクルから当時日本人初のAWA王座を獲得し、念願の世界奪取を達成。以降16回の防衛に成功し、日米間を往復しての世界王座防衛は日本人初の快挙である。実力的には馬場猪木の後継者とされたが、人気の面では長州や天龍の後塵を拝する悔しい現実に悩まされる。
 こうしたレスラーとしての格の違いと人気面のギャップは、良くも悪くも”気は優しくて力持ち”的な鶴田のキャラにファンが感情移入し難い点に一因があったとされる。

 一方で85年11月、当時の新日のエースで全日本に参戦した長州との一騎打ちでは、フルタイム戦って両者引分けに終わるも、内容では鶴田が圧倒。対戦前には”ぬるま湯に浸かってるだけのサラリーマンレスラーよ”と、散々鶴田を酷評した長州だが、対戦後”判定だったらオレの負けだったね”と振り返った。
 ただ、鶴田が怪物レスラーとして完全無欠のエースとしての評価を高めたのは、1987年に勃発した天龍との一連の抗争からである。仲野や天龍を失神させたシーンは今も語り継がれ、寺西勇アニマル浜口も全治数ヶ月の入院を余儀なくされ、その怪物ぶりを如何なく発揮。特に、天龍は88年6月の世界タッグ戦でバックドロップの3連発、89年4月の三冠戦では垂直落下型パワーボムで2度も失神させられている。


ジャンボ鶴田のプロレス”Ep2”

 因みに、後に引退の原因となるB型肝炎のキャリアが発覚したのが85年8月で、天龍の激しい攻撃に触発された面もあるが、”長くプロレスは出来ないかも”との危機感が、普段は温厚な鶴田が類まれな身体能力を覚醒させたとも言える。また80年代中盤は、ブロディ、ハンセン、ロードウォリアーズといった大型レスラーとの戦いがメインで、大きな外人と戦っても見劣りしない鶴田の豪快無比でダイナミックなファイトは、世界でも高く評価され、鶴田の運動能力や身体的能力を絶賛する者も多い。
 一方で、この時期の鶴田はシングル戦では苦戦続きで、85年4月と87年3月にフレアーのNWA王座に挑むも失敗し、86年のAWA王座再戴冠を目指し、王者スタン・ハンセンに3度挑むが全て奪取に失敗。これは肝炎発覚による精神的落ち込みなのか、不調気味の戦績と言えなくもない。

 しかし国内では無敵で、89年4月にはインター・PWF・UNの三冠シングルを統一。結果、ジャンボ鶴田の人気は不動のものとなり、全日のエースから日本プロレス界のエースと呼ばれるに相応しい存在になる。
 だがこの頃は、天龍がワンマンになりかけた鶴田に嫌気が刺し、全日を離脱してSWSに移籍。その後、鶴田のライバルとして弟子の三沢光晴が名乗りをあげ、90年6月にシングルで鶴田に勝利するも内容的には完敗であった。その3ヶ月後、再度三沢と戦うが、今度は鶴田が完璧なピンフォールを奪う。翌91年1月にはハンセンを破り、三冠王者に返り咲き、この年は三沢、川田、S.ウィリアムスを退け、三冠王座を死守。
 特に1月下旬の6人タッグでは、川田の執拗な攻撃にぶちキレし、半失神状態で戦士喪失した川田を更に追い詰め、”なんで僕はキレてしまったんだろう”と試合後に悔やんだ。更には、三沢の鼻骨を骨折させ、その鼻に攻撃を絞って徹底するという異常なキレ方を見せる。

 この91年は、7年ぶり3度目のプロレス大賞MVP受賞となった鶴田だったが、精神的にも不安定で、試合後のコメントにも一貫性がない。”1度でいい、世界最強のハルク・ホーガンと負けてもいいから思いっきり闘いたい”と発言し、対戦したい相手として前田日明や藤波の名も挙げ、一時は新日本への移籍を本気で考えた時期もあったという。
 事実、81年に馬場が視聴率低下と経営不振を理由に全日の社長を外され、タイガー戸口が全日から新日に移籍する際、馬場の代りブッカーの仕事を押し付けられた鶴田も全日を離れようとした事が後年明らかになるが、もし移籍が実現してれば、プロレスとの関わりを断ったのではと推測されている。一方で、80年代後半にも鶴田は”プロレスを辞めた後に焼肉屋でも始めようかな”と漏らし、実際に経営に関する本も読んでいたという。

 更に興味深い事に、当時実現が期待されてた馬場と猪木の対戦について、鶴田は”全日本に閉鎖的な面もあるとは思うが”と前置きした上で、馬場に挑戦状を叩きつけた猪木に”今は良いが、あと何年かすれば年齢的にもベストではなくなるから、猪木さんも焦ってるのかな?”と、中立的な立場で語っている。
 その後、猪木が40歳を過ぎた頃に前田日明が、そして86年に第2回プロレス夢のオールスター戦の企画が上がった際には鶴田が、それぞれシングル対決希望を表明したが、猪木は前田vs鶴田の対戦要求に応じる事はなかった。なお、鶴田は後の修士論文(1996)で”私は猪木には勝てない。入門した時からエリートコースに乗せられ、ビッグタイトルのチャンスを与えられた私はハングリー魂に欠ける。これは馬場さんの育て方の問題であり、甘いのである”と、率直な自身の評価を記している。


ジャンボ鶴田プロレス”Ep3”

 翌92年の1月には、ハンセンに敗れて3冠ベルトを奪われ、チャンピオンカーニバルでも優勝戦進出を逃すなど、前年の怪物振りと比べると陰りが見えていた。が、この年に急成長を見せたパートナーの田上が体調万全ではない鶴田を上手くカバーし、世界タッグ王座防衛に成功。田上の躍進と成長を見届けた鶴田は、これを最後に第一線を退く形となる。
 その後、同年11月にB型肝炎を発症し、長期入院を余儀なくされたが、公には伏せられた。また、鶴田がB型肝炎キャリアである事は(前述の様に)85年8月の時点で判明してたが、これも周囲には伏せられていた。翌93年の復帰後も再発や伝染の危険性がある為に、出血を伴う様な負担のかかる第一線のリングには立たなかった。
 ”一昔前なら自分は死んでいた”とも発言した鶴田がメインを張る事は無くなったが、馬場は給料を下げる事はしなかった。そこで、肝臓に爆弾を抱えた鶴田は教授兼レスラーとしての新たな道を模索し、大学の非常勤講師ながらスポット出場という形で現役レスラーを継続。体は衰弱しつつあったが、スポーツ医学の専門家を目指す鶴田の目には、確かな希望が輝いていた。
 だが、99年1月末、鶴田の全てのルーツであった馬場が急逝すると、その20日後に現役引退を決意。記者会見では”全盛期に前田日明と戦ってみたかった”とコメント。同年3月には、スポーツ生理学の客員研究者として、アメリカに留学する事を明らかにした。
 因みに、鶴田がアメリカへ向かう際、見送りに来たのは三沢と仲田アナと大八木専務の僅か3名だったが、鶴田と馬場元子オーナーとの間には既に距離が出来てたという。
 その後、鶴田のB型肝炎は肝硬変を経て、肝臓癌へ転化し、余命1年と告知。臓器移植の可能性を求め、マニラでドナーが見つかるとフィリピンへと渡り、翌2000年春、肝臓移植手術中に大量出血を起こし、16時間にも渡る手術の甲斐なく、同年5月13日に49歳で死去。因みに、鶴田がAWA王座から陥落したのも5月13日であった。

 鶴田の死から丁度1ヶ月後の6月13日、鶴田の付き人だった三沢光晴が全日社長を辞任し、その3日後には新団体ノアの旗揚げを発表。これに伴い、全日本の選手が大量離脱した事で、鶴田の妻・保子は後に彼らが全日本で冷遇されていた事を知り、”馬場元子さんは許せないです”とも語った。因みに、三沢も9年後の同日に広島市で試合中の事故による頚椎離断で急逝。”13日の金曜日”でもないが、不幸の連鎖がここまで続くと返す言葉もない。
 2014年11月、鶴田は米国プロレス殿堂入りを果たし、日本人では力道山、馬場、猪木に次ぐ4人目の快挙であった。
 以上、3つのパートに分け、ウィキやその他諸々のサイトから纏めました。

 
最後に

 鶴田の死後、20年以上経っても、”鶴田最強伝説”は収まる気配がない様に思える。勿論、これには異論や反発もあろうが、196cm127kgの巨体が自由自在に大暴れする驚異の体力と無尽蔵のスタミナを昔の動画で振り返る度に、私の中での鶴田最強伝説は揺るぎのないものになっていく。
 そんな私も、鶴田が現役レスラーだった頃のイメージは、そんなに強く激しく印象的なものはなかった。”才能だけでただチャンスに恵まれ過ぎたアイドルレスラー”というイメージしかなかった。だが今に思うと、恵まれすぎる天賦の才能に嫉妬してただけだが、鶴田と闘った往年のレスラーらの生の言葉を聞くにつれ、鶴田のイメージが少しずつ反転していく。

 例えば、試合後の控室でも息を切らす事はなかったと言うし、ウエイトをしなくても(デビュー時の)S.ハンセンよりも重いベンチを挙げていた。長州戦では激闘の直後なのに、笑みを浮かべながら”今日は完勝だったね”と、スクワットを何度も繰り返している。
 ”そのタフさスタミナ、全てが桁外れだった”との証言は、”次元の違う所で闘う”男の全てを立証する。更には、”プロレスは僕に最も適した職業と思い・・”との入団会見での発言が、鶴田のプロレス観の全てを物語っている。
 アマレス最重量級の国内最強で五輪代表という誇らしい看板を引っさげ、体格と才能と知性にも恵まれたエリートにとって、トップレスラーへのレールが敷かれてたとはいえ、鶴田はプロレス界入りを”就職”と捉えていた。
 だが、ましてや昭和の時代のプロレスである。今に思うと、鶴田の全日入団はトップエリートによるプロレス革命だったのだ。

 更には、強さも潜在能力もスケールも怪物級なら、欲のなさもスター気取りのなさも大物であった。リングを離れれば、世界王者のジャンボ鶴田から鶴田友美に戻り、温厚で心優しい堅実な普段の自分で通した。”24時間アントニウス”であった猪木とは大きな違いである。
 例えば、85年8月の大阪城ホールで、当時飛ぶ鳥を落とす勢いだった長州力”馬場と猪木の時代は終わった”と、世代交代を宣言した時も、鶴田は”今はまだ馬場さんや猪木さんの時代です”とあっさりと言ってのけた。
 つまり、”レスラーがプロモートする時代ではない”とプロレスを冷静に分析する鶴田だが、長州とは器の大きさも格違いだった様に思える。確かに、馬場や猪木の壁は現実と同じく、思った以上に厚く大きかったのだ。

 とはいえ、組織や上司に反抗もできない昭和のサラリーマンたちは”非日常”をプロレスに求め、過激な新日こそが男のロマンであり、”鶴田のプロレスは現実的過ぎて夢がない”という声が、当時は大きかった様な気がする。それは、天龍や長州も同じ思いだったろう。
 だが、鶴田のプロレスはその王道を行くものであり、馬場のプロレスを継承するものでもあった。


余談

 今思うに、鶴田が過激な”猪木イズム”に傾斜するのは、B型肝炎のキャリアが発覚した頃であり、”長くプロレスは出来ない”との危機感が鶴田の全てを覚醒させ、従来の現実路線の考えを覆えさせたのではないか。周囲には感染の事実を伏せてリングに上がっていたが、血液などで感染するB型肝炎では、過激なプロレスは非常に危険かつ非常識な行為でもある。
 鶴田に迷いが出たのも、この頃ではないだろうか?事実、新たな世代を模索する天龍や長州に刺激を受け、鶴田の心は揺れ動く。一方で肝臓には爆弾を抱え、守りに入る自分がいる。当時、リングから一線を引いてた馬場も鶴田の迷いを理解してた筈だが、天龍の”いま世代革命を起こさねば、誰がやる”との言葉も正論ではある。
 天龍に喧嘩を売られ、迷いが吹っ切れた鶴田は勝負に出て、4年ぶりの鶴龍対決では壮絶なファイトになった。”鶴田にはこんなファイトが最初から必要だったんだ”と、馬場の迷いも吹っ切れ、両者を絶賛した。 

 勿論、結果オーライな部分はあるが、鶴田にはこんな喧嘩ファイトがいつまでも続くとは考えられなかった。過激な激闘でファンは満足するかもだが、疲弊した肉体は免疫が落ち、やがては肝炎が発病するだろう。それは馬場も判ってた筈だ。一方で、その時に真実を漏らせば、エースの鶴田を失うし、全日の存在も危うくなる。故に、この時期は鶴田だけでなく馬場にとっても苦痛の日々だったに違いない。
 だが鶴田はその後も、弟子の三沢や川田と数々の激闘を繰り広げた。結果的にはキャリアが判明し、その7年後に肝炎が発病。更にその6年後に重症化して他界した。仮に、この7年間の壮絶な激闘がなかったら、発病する事も発病したとしても重症化する事はなかっただろうと思うのは、私だけであろうか。
 ともかくも、鶴田は覚醒し、天賦の才能に見合う超人的なファイトを繰り広げ続けた。だが、その代償は思った以上に大きすぎた。故に、馬場元子さんを責める鶴田の妻・保子さんの気持ちも理解できなくはない。

 勿論、我々プロレスファンは、全日であろうが新日であろうが、本当の鶴田の強さを見たかった筈だ。もっと強い鶴田が存在したかも知れないし、天龍戦が限界だったのかも知れない。しかし、私の心の中では”鶴田最強伝説”が確信できただけでも満足ではある。
 ただ個人的には、”馬場vs猪木”の延長上に”鶴田vs前田”があり、馬場が猪木の挑戦を受けてたら、猪木は鶴田と前田の対戦を許したであろうか。鶴田が馬場の閉鎖性に疑問を呈すのも肯けなくもないが、もっと強い鶴田が存在するとしたら、当時新日最強と謳われた前田や世界最強の名を欲しいままにしたハルク・ホーガンとの対決ではなかったか・・

 全くファンというのは我儘で残酷な生き物で、夢を語ったらキリがない。また、プロレスラーと言えど生身の人間である。超人的な体力と肉体を持ってしても、刺されれば死ぬし、怪我や病気をすれば、入院して治すしかない。
 つまり、超人的なレスラーはそれに見合うリスクを背負ってるのであり、我ら凡人はそうしたリスクの上にも、更に夢を追い求める。 
 鶴田が”確かに今はオレ達の時代だが、それはリング上での話で、マッチメイクや経営にまで及ぶものではない”と、現実路線の全日に反旗を翻す天龍に反論した様に、つまり”ファイトと経営は独立して考えるべきだ”と、鶴田はプロレスと興行を区別して考えていたのである。言い換えれば、ジャンボ鶴田は純粋なプロレスラーであり続けたのだ。
 会社に勤めるのと会社を立ち上げるのは根本的に異なるが、昭和の頃はレスラーが経営者やプロモーターやブッカーを兼ねる事のできた、何でもありの贅沢な時代でもあった。

 しかし今や、プロレスと言えど1つの企業であり、株主に経営者にプロモーター、ブッカーとリングという現場で戦うレスラーとの個別の階層が確立しているが、鶴田の考えるプロレスは純粋にリング上での戦いであった。
 従って、”鶴田最強伝説”はそこから生まれたものであり、私にはその信憑性も純度も高いと思うのである。