
ゲッチンゲン大学に留学したリーマンが一番没頭したのは、ガウスでもディリクレでもヤコビでもなく、”数学の革命児”ルイ・コーシーの論文であった。
”リーマンの謎、3の1”でも書いた様に、リーマンの謎を語るには、コーシーの複素関数論を抜きには語れない。
リーマンに”複素解析”という最終兵器がなかったら、リーマン予想(1859)はおろか、素数定理に関する解析公式(明示公式)も、複素領域にまで拡張したゼータ関数も、そしてリーマン幾何学(1854)も複素積分(アーベル関数)の確立(1857)もなかったろう。
勿論、学士論文の「複素関数の基礎」(1851)も存在し得なかったかも知れない。
コーシーに憑かれた男たち
そこで今日は、リーマンとコーシーの意外な関係についてです。以下、「素数の音楽」を参考にしてます。
オーギュスタン・ルイ・コーシーは文字通り革命の申し子で、1789年のバスティーユが陥落した時に生まれた。当時は食料事情が酷く、幼い頃からひ弱だったコーシーは、学問に特に数学に避難所を求めた。
コーシーの父の数学仲間だったジョセフ•ラグランジュは、既にコーシー少年の才能を認めて、こう諭した。
”今は小柄な子だが、いずれ我々数学者に取って代わるよ。しかし17歳になるまでは、数学には触れさせない方がいい。文学的な才能を今は刺激させれば、数学に戻ってきた時には、自分自身の言葉で数学を語る事が出来るから”
これは賢明な忠告であった。数学に埋没したコーシーは新たな言葉を生み出し、堰を切った様に溢れんばかりの才能を発揮し始めた。
コーシーの論文はあまりにも膨大になった為、多大な影響力を持つフランスの学術誌は論文の枚数制限を課した。この制限は今も厳密に守られてる。
しかし当時は、彼の数学言語をやりすぎと批判する数学者もいた。
特にアーベルは、”彼がしてる事は素晴らしいが、まるで気が触れた様で混乱してる。しかし、パリにいる数学者の中で純粋数学を実践してるのはコーシーだけで、数学者がどうあるべきかを知ってるのは彼だけだ”と高く評価した。
事実、コーシーのお陰で学生たちが数学の実際的な応用から遠ざかってると、パリの権威との間で悶着が起きた。
”純粋数学は不要の贅沢で、他の学科において有害だ”というのだ。
こういった事情もあってか、リーマンはコーシーの新しいアイデアに心を踊らせ、活気あるベルリンでも隠匿者みたいな生活を送った。
一心にコーシーの論文を読み耽ったリーマンは、”これこそが新しい数学だ”と学生の前で言い放った。
コーシーとリーマンの想像力を虜にしたのは、当時明らかになり始めてた”虚数の威力”だったのだ。
虚数の発見と数学の新たな展望
2乗してマイナスになる虚数など、一見すれば現実世界と全く矛盾した数字である。しかし虚数は、単なる数学者の抽象的な玩具ではなかった。
この虚数こそが20世紀に展開する原子より小さい粒子(量子)の鍵を握ってたのだ。マクロの次元で言えば、虚数なしには飛行機を飛ばす事すら出来なかった。
実在する数字(実数)に拘るのを止めて初めて、新たな思考の柔軟性を手に入れる事が出来た。つまり、虚数こそが現代数学を支えてるのだ。
では虚数はどのようにして発見されたのか?
古代バビロニアやエジプト人は、7匹の魚を3人で分けるという計算をした。そこで、3/7という分数(有理数)が登場する。
紀元前6世紀には三角形の幾何学的な性質を調べてたギリシャ人が三角形の辺の長さが分数で表せない事に気づく。ピタゴラスの定理を発見すると、分数で表せない新たな数(無理数)を作り出す必要に追われた。
因みにピタゴラスの定理では、直角二等辺三角形の2つの短辺を1とすると、長辺は√2となる。分数は小数展開すれば、あるパターンが繰り返されるが、古代ギリシャ人は2の平方根が分数にはならない事を証明した。
ゲッチンゲンにいた頃のリーマンは、√2を小数点以下38桁まで計算したという。ここ計算は延々と終りがない事を承知してたにも拘らずだ。
そこで数学者達は、x²=2という方程式の解の性質を明らかにしようと、√2を”無理数”と名付けた。”数の比で表す事が無理な数”という意味になる。
しかし一見、現実離れしたこの無理数も数直線上の点として表せる。つまり、 直角二等辺三角形を正確に作図し、その長辺に定規を当て、その長さの所に点を打てばいい。
負の数もまた、x+3=1という単純な方程式を解く過程で生まれた。インドの数学者達は7世紀には、この新しい数を使っていた。負債を表すのに、拡大する金融業界の必要に応え、生み出されたのだ。
しかしヨーロッパの数学者たちは、この負の数を”作り物”呼ばわりし、その存在を認めるようになったのは1000年後の事だ。
無理数と負の数があれば、様々な方程式を解く事が出来る。x³+y³=z³(フェルマーの定理)は整数に限らなければ、zを立方根とする事で、この方程式を満たす。
しかし、数直線上のあらゆる数では成立しない方程式を作る事も出来る。例えば、x²=−1を満たす数は実在しない数である。とはいえ、ギリシャ人は√2という分数では表せない新しい数を作り出せたのだ。ならば我々も想像の翼に乗り、x²=−1を満たす新たな数を作り出しても構わんだろうと。
しかし数学者にとって、創造的な飛躍は概念を獲得する上で、手強い課題となる。
”−1の平方根=√−1”という新たな数は虚数単位と呼ばれ、”i”という記号で表され、更にiで作られた数を虚数と呼んだ。一方で、数直線上にある数を実数と呼ぶようになった。
一見インチキに見えるこれらの作業だが、この方程式に解がないと何故決めつける事が出来るのだろうか?数学者は楽観的な人種な筈だ。一旦認めてしまえば、その数(虚数)は必然となる。事実、1と−1は実在する数字で、それらを組み合わせた方程式の解が実在したとしてもおかしくないではないか?
つまり、虚数とは人工的に作り出された数ではなく、ずっと前から存在したにも拘らず、正しい問いかけをしなかった為に見つからなかった数だったのだ。
虚数の大きな飛躍
18世紀の数学者は、この様な数(虚数)の存在を認めようとはしなかった。しかし19世紀の数学者達は、従来の数学の規範に背くこの新たな思考様式を信じる事にした。
−1の平方根は、2の平方根と同じくらい抽象的な概念だが、どちらも方程式の解に過ぎない。つまり、新たな方程式が登場する度、新たな数を作り出す必要があるのだろうか?
x⁴=1という方程式を解きたい時、x=1ではダメなのか?そんな不安に終止符を打ったのが、22歳になるガウスの博士論文(1799)だったのだ。
ガウスは、”iという数を使えば、全ての方程式が解ける”事を証明した。つまり、方程式の解は実数と虚数iで構成されると。
証明の鍵は、数直線上に実数が並ぶという従来の概念(縮図)を拡張する所にあった。そこでガウスは、左右に延びる直線(実数)に、縦の直線(虚数)を加えた。
方程式を解くに必要なすべての数を、1+2iの様に実数と虚数iを組み合わせた形をイメージした。そして、あらゆる数を2次元の平面上で表せる事に気付いたのだ。
例えば1+2iは、ヨコに1単位タテに2単位の点である。
しかしガウスは、証明に使ったこの強力な作図を公表しなかった。秘密主義もあったが、当時はフランス数学全盛で、公式や方程式で数学を記述するが主流だった。それに、数学者が”図は誤解の元”と考える様になり、数百年が経っていた。
つまり、数学を記述する言語は物理的な世界を支配し利用する為に導入されたもので、17世紀のデカルトは幾何学と方程式(代数学)を結びつけ、”感覚により理解は感覚による欺瞞だ”と言い放った。
一方でリーマンはデカルトの著書を読みながら、感覚を否定する考えに嫌悪を抱いた。
コーシーは直感的に図形を描き、立方体の頂点と辺と面に関する”オイラー予想”を証明した(1811)が、そこには大きな見落としがあった。立体に穴が開いてるのを忘れてたのだ。つまり、図を使うと明らかな観念を見落とす事がある。
図に騙されたコーシーは誠実さを求め、公式と記述に走った。かの有名なコーシーの積分定理である。お陰で数学界に大変革が起き、対称という概念を図の力を借りずに厳密な形で語る新たな言語である複素関数が創出された。
ガウスは虚数を示す自ら編み出した地図が、当時の数学者たちに毛嫌いされる事を見抜いていた。数は加えたり引いたりするもので、図に描くものではないのだ。
ガウスが以降、証明の足場を綺麗に消す様になったのも、こういった事情がある。
虚数という鏡の国の世界
コーシーを初めとする数学者は、関数を虚数の世界に拡張する研究を始めていた。すると数学世界の無縁に思える部分が虚数によって繋がり始めたのだ。
そういった関数の世界の中で、ガウスが興味を持ったのは、素数の個数を数え上げる関数だった。
π(x)で表されるこの関数は、階段状の右上りのグラフで示され、素数に出くわす度に値は1つ跳ね上がる。例えば、x=4.9から5.1に変えると、π(x)は2から3に増える。
つまり入力する値は実数だが、出力する値は常に自然数である。
そこで数学者は、関数に実数ではなく虚数を入れたらどうなるのか?を考えた。
関数に虚数を入れたのは、オイラーが初めてである。
オイラーは常に、数学に風景を求めた。
既に虚数という鏡の世界を旅してたオイラーは、指数関数と虚数と三角関数という一見無関係に思われる3つの世界の間に、奇妙な繋がりがある事を発見する(オイラーの法則、1748年)。
例えば、2ˣという指数関数に実数xを入れると、急激な右上がりのグラフになる。オイラーはこの事を知っていたが、この関数に虚数を入れると、うねる波の様なグラフが現れた。
このような波を作り出す関数をサイン関数といい、今日ではこのサイン関数は様々な日常の計算に利用される。ビルの高さを測るにも、楽音を再生するにもこの関数を使う。
オイラーは、1つ1つの音の特徴がそれに対応する虚数の係数により決まる事を示した。つまり、係数が虚数の地図の北に行く程に音は高くなり、東に行く程に大きくなる。
こうしたオイラーの発見により、虚数が数学の風景に予想外の道を切り開くきっかけを作った。コーシーを筆頭に数学者たちは狂った様に、虚数の世界を弄り始め、虚数の新たな研究は伝染病の様にヨーロッパ中に拡散した。
最後に〜素数と音楽
オイラーは虚数が導く”解析接続”という理屈とは独立して、心の中に虚数の数学的風景を折り重ねた。
しかし複素関数論が構築され、数学的風景が現実の世界に記述され、素晴らしい飛躍を遂げると同時に、この便利な鏡の世界に頼りすぎて、数学的風景を見抜こうとする努力が怠りがちになってると言えなくもない。
事実、今や数学の記述というものは、延々と繰り返される計算や関数式を意味し、計算バカいや数学バカという無機質な民を生み出してると思えなくもない。少なくともそこには美学というものはない。
バルザックやゾラは小説を、絵画を描く様に書いた。リーマンは音を奏でる様に数学を記述した。
”素数は音楽に分解できるという事を数学的に表現するとリーマン予想になる。この定理を詩的に述べれば、素数はその中に音楽を持つという事になる。但し、その音楽は近代概念では捉えきれない、極めてポストモダンなものではある”(マイケル・ペリー)